揚げたて天ぷらに滑らかな茶碗蒸し、太打ち田舎そばも絶品
東西に延びる戸越銀座は、全長およそ1.3km。下町情緒あふれる商店街を散策するのは楽しいけれど、端から端まで歩くと結構長い。途中で、おいしそうな匂いに何度も誘惑されそうになりながら、『蕎麦切り 翁』をひたすら目指す。今日のお目当ては、遠方から食べに訪れるファンもいるという、平日お昼のそば膳だ。
都営浅草線戸越駅から歩くこと10分。『蕎麦切り 翁』は、商店街の東の奥にひっそりと佇んでいた。
店内は、テーブルが2つとカウンター合わせて12席。テーブルやイス、カウンターは一枚板が使われている。席数を絞り、照明も明るすぎない落ち着いた空間で、初めて訪れてもくつろげる居心地のよさがある。
手書きのメニューに交じって、店主の思いの伝わる1枚をみつけた。お互いに気持ちよく食事を楽しむための、ほんの少しの心配り、大事だよね。こんなふうに、お店の姿勢をさりげなく示してくれていると、よいランチタイムが過ごせそうな気がする。
ランチタイムのメニューを見ると、単品の温かい蕎麦に親子丼、かつ丼、天丼といった丼ものが並び、そばと丼は、どちらかを小サイズにして組み合わせることもできる。でも、今日は初志貫徹、平日お昼のそば膳1300円に。
もりまたはかけそばに天ぷらと小鉢、茶わん蒸し、タコ飯がセットになっていて、そばはもりまたはかけ、種類も細打ちそばと太打ち田舎そばから選べる。
厨房から聞こえていた天ぷらを揚げる小気味いい音がやんだと思ったら、そば以外のお膳が到着。早速、揚げたての天ぷらからいただきます。
この日の天ぷらは定番のエビとかぼちゃ、ブロッコリーも天ぷらによく合う。茶わん蒸しの上にアオサが乗っているのは珍しい。出汁がしっかり効いていて、なんて滑らかな食感。鶏肉は柔らかく、タケノコに春を感じながら味わっていると、主役のそばが登場。
茹でたての太打ち田舎そばは、しっとりとしてなかなかの存在感。せっかくなので、まずは天ぷらに添えられていた塩をちょっと振りかけて、次はわさびだけで食べてみた。ひんやりとした心地よさとそばの風味がいい。出汁の効いたそばつゆで食べても、しっかりと味わえる。これが『蕎麦切り 翁』の太打ち田舎そばなのだ。
天ぷら、茶わん蒸し、そばを食べ終えても、タコ飯が待っている。硬すぎず柔らかすぎず、絶妙な歯ごたえのタコは旨味たっぷり。小鉢のキャベツとわかめのからしみそ和えもさっぱりとして、いい箸休めに。
そして、最後に水ようかん。和の甘味がちょっとあると、幸せ感がぐっと増す。しっとりと落ち着いた雰囲気の中で、このそば膳が食べられるなら、遠くてもちょっとぐらい行列しても、また来たくなる。
改装を機に生まれたこだわりの細打ちと太打ち田舎そば
『蕎麦切り 翁』の店主は、三代目の髙島伸一さん。祖父でもある初代が戸越銀座にのれんを掲げたのは、1950年まで遡る。当時の店名は『翁そば』で、そばだけでなくラーメンも食べられる、いわばご近所の食堂的存在だった。3代目は和食の修行をしたのち27歳で店に戻ったが、町のそば屋さんがだんだんすたれていくのを感じた。
「ラーメンが食べたいならなら、ラーメン屋さんに行く時代になって、今まで通りのやり方をこのまま続けていくのは厳しいと思ったのです」。考えた末、3代目は2005年に店内を改装。これを機にそばも機械打ちから手打ちへと切り替え、店名も『蕎麦切り 翁』に改めた。
そばは、細打ちと太打ちの2種類。「そば粉は、北海道産を中心に石臼で製粉しています。細打ちは、粗挽き粉をブレンドした、風合いのある、のどごしのよいそばに。太打ちは、そば殻の粉を多めにブレンドし、味、香りがよく、噛みごたえのある力強いそばに。つゆは、香りのよい宗田節と甘みのある鯖節を合わせて、コクの深い味わいを引き出しています。」
大切な人と一緒に訪れたくなる、とっておきの店
3代目が大切にしているのは、「“普通においしい”というときの“普通”には2種類あるでしょう。平凡という意味と、ほっとする、懐かしいという意味。うちは特別凝った料理や器ではないけれど、ここでは肩の力を抜いてゆっくり過ごしてほしい。仲良くなりすぎるとかえって気を使わせてしまうことがあるから、常連さんともつかず離れずの距離感を心がけています」。
なるほど、『蕎麦切り 翁』のそばや料理は、控えめにいってもかなりおいしい。それだけでない、また訪れたくなる魅力は、普通や日常を大切に、心のこもった料理や店づくりを続けているからなのだ。
「お客様は老若男女、カップルの方も多いです。ときどきカップルのどちらかの親御さんもご一緒の時があって、そういう大事な時にうちの店を選んでいただけたんだなと思うと、とてもうれしいです。」と3代目。
何気ない日も大切な日も、いつもよりちょっと豊かで幸せになれる。『蕎麦切り 翁』は、そういうとっておきの1軒だ。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=松本美和