三角形の砂州の岬に築かれた砲台

東京湾の浦賀水道は西に観音崎、東に富津岬があり、ちょうどS字で入り組んだ湾となっています。敵国の艦船から首都を防衛するのに最適な場所であり、以前廃もので紹介した観音崎一帯には、日本初の西洋式砲台が整備されました。

桜が満開となった麗(うら)らかな春の日。観たい展示があったので、横須賀美術館へ行きました。初めて行く美術館なので、周りには何があるだろうかと何気なく美術館周囲の地図を見ていると、「三軒家砲台跡」という単語を見つけてしまいました。なに?砲台跡?砲台跡。この単語に興味が惹かれ、美術館を拝観し終わったら散策してみよう。いや、そうするべきだと決めました。横須賀美術館は三浦半島の東側、神奈川県立観音崎公園内にあります。観音崎は東京湾の湾口部にあり、一般的には観音崎灯台や海原が望める丘陵地帯の公園が有名ですが、私にとっては明治期に配備された観音崎砲台群を連想させるものです。明治初期から1945年の終戦にかけ、東京湾要塞のひとつとして、三浦半島の沿岸部には砲台などの防衛施設が多数配備されました。とくに観音崎は日本初の西洋式砲台として旧陸軍が整備することとなり、第一砲台が明治17年(1884)に竣工し、続いて第二砲台、第三砲台と、丘陵地帯の沿岸部のあちこちに砲台が配備されました。「三軒家砲台跡」もその砲台群のひとつで、明治29年(1896)から昭和9年(1934)まで稼働しました。
前回は「三軒家砲台跡」と「腰越堡塁(ほうるい)」を散策しました。まだ日が暮れるには早い時間帯、せっかくなので観音崎公園に点在する砲台群を見て回ります。神奈川県立観音崎公園は、砲台跡がいくつか点在しています。案内板にもしっかりと記されているし、道も舗装されて歩きやすいので、草木をかき分けて見つける廃墟とは違って気軽に散策できます。さらに、遺された砲台跡は遺跡のような佇まいをしており、かなり見応えあります。観音崎には、前回巡った三軒家砲台跡を除くと、北門第一、北門第二、旧第三、北門第三、北門第四、南門が存在しました。そのうち旧第三と北門第四は海上自衛隊敷地内にあるため見学不可です。今回は第一、第二、第三の三ヶ所を巡ります。これらの砲台は三軒家砲台よりも古く、とくに北門第一と第二は、日本初の西洋式砲台として整備されたので、明治初期の砲台をよく観察することができます。砲台は、日清戦争や日露戦争時に敵の上陸を阻止するため造られたものです。やがて大正時代となると、役目を終えるものや、関東大震災によって被災したものもありました。観音崎にあった砲台の全てが第二次世界大戦終了時まで現役だったわけではありません。また海上自衛隊敷地内にある旧第三砲台は、貴賓船用の礼砲台として現役です。砲は戦後に設置されたものですが、衛星写真を見ると馬蹄状の砲台跡と礼砲用の砲座が判別できます(余談ですが、数カ月前のテレビ番組「鉄腕ダッシュ」でこの礼砲台が紹介されました)。それでは巡っていきましょう。

浦賀水道には海堡(かいほう)が3箇所建設されました。海堡とは海上要塞のことで、第一海堡は富津岬の遠浅の海上に築かれ、続いて第二海堡、第三海堡と、約3kmごとに築かれました。これらの海堡は海に人工島を建設し、海上から首都防衛を担ったのです。海堡についてはまた今度触れます。

富津岬の空撮。三角形の砂州である。岬の突端の先にある小島は第一海堡。岬の中心部分の堀になっている所が今回の主役である元洲堡塁砲台跡。2012年4月12日空撮。
富津岬の空撮。三角形の砂州である。岬の突端の先にある小島は第一海堡。岬の中心部分の堀になっている所が今回の主役である元洲堡塁砲台跡。2012年4月12日空撮。

そして千葉県側は、三角形の砂州である富津岬に元洲堡塁砲台(ほうるいほうだい)が整備されました。竣工は明治17年(1884)と、観音崎の北門第一砲台と同時期です。台形に近い五角形の堡塁(いわゆる陣地)を築き、その周囲を堀にして東京湾から海水を引きました。外観は小規模な平城の様相です。

現在は「大池」と呼んでいる堀の部分から堡塁を望む。平地に築かれた平城の様相だ。
現在は「大池」と呼んでいる堀の部分から堡塁を望む。平地に築かれた平城の様相だ。

ここに配備されたのはカノン砲(十二糎加農砲)や榴弾砲(二十八糎榴弾砲)で、それぞれの砲が扇状に展開しながら海上を睨んでいました。しかし急速に発展する兵器、戦法と戦略の進化によって元洲堡塁砲台は旧式となり、早くも大正4(1915)年には除籍となって、第一線を退きます。

元洲堡塁砲台の入口。看板には砲台跡のことが記されている。やっぱり城に見える。
元洲堡塁砲台の入口。看板には砲台跡のことが記されている。やっぱり城に見える。

その後は砲台としての役目は終え、富津岬全体が「陸軍兵器行政本部第一陸軍技術研究所富津試験場」として活用されました。試験場についても気になるところですが、今回は元洲堡塁砲台の跡を見ていきましょう。

中の島という名称となった砲台跡

砲台跡は富津公園内にあり、「中の島」と呼ばれています。五角形の堡塁はぐるっと堀で囲まれており、中の島と名付けられているのも納得。堀は「富津公園大池」と呼ばれています。ここが砲台跡だったと知らなければ、平城であったのかと思うでしょう。

実際、広場から短い橋を渡って砲台跡へ向かうとき、堀の先は左右に土塁が盛られており、土塁の下部には石垣が見られます。パッと見たところ城に見えてしまいますね。入口部分には「富津岬戦争遺構ガイド 元洲堡塁砲台」の説明看板があって、それを読んでから入っていく人々を何組か見かけたので、ここで初めて砲台跡と気が付く人もいると思います。

入口部分に残る土塁の石垣部分。車一台分の幅だ。
入口部分に残る土塁の石垣部分。車一台分の幅だ。

さて、土塁の内部に入ります。以前紹介した観音崎の砲台跡は、岬の斜面などに設置されて木々が茂っていましたが、ここは五角形の敷地を土塁で囲んでいるスタイルで、周囲は平坦な土地で松の木が点在する程度だから、全容が掴みやすいです。さらに嬉しいことに、土塁の上には「中の島展望台」が建っているため、砲台跡の全景が拝めるのです。

いきなり登ってみます。おお!これは分かりやすい。展望台から望むと、土塁が一部窪んであるところに砲がありました。5箇所ある窪んだところに榴弾砲があったのかと想像できます。これは助かりますね。ただしその場所は低木が茂っており、砲座の周囲を囲む石垣(=胸墻<きょうしょう>)は確認しにくかったです。

展望台から望む。こちらは右翼側。手前と奥の窪んだ箇所に榴弾砲が設置されていた。僅かに胸墻の石垣らしき構造物が確認できる。グレー色の折れ曲がっている道は戦後の公園整備時に造られたものだろうか。
展望台から望む。こちらは右翼側。手前と奥の窪んだ箇所に榴弾砲が設置されていた。僅かに胸墻の石垣らしき構造物が確認できる。グレー色の折れ曲がっている道は戦後の公園整備時に造られたものだろうか。
こちらは中心部と左翼側。先ほどの入口は写真左手の土塁が途切れた部分だ。現役時は数棟の建屋があって土塁で囲まれていたがこのように広場となっている。トイレがポツンとある。
こちらは中心部と左翼側。先ほどの入口は写真左手の土塁が途切れた部分だ。現役時は数棟の建屋があって土塁で囲まれていたがこのように広場となっている。トイレがポツンとある。

もっとも、展望台へ上がる人々は富津岬と東京湾の全景を楽しむのが目的であり、私のように展望台からわざわざ真下の地面をマジマジと眺める人は少数です。(ですが、訪れたときは砲台観察目的で来る方も数名いました)

展望台から降り、地上へ戻ってきます。ぐるっと囲む土塁の内側は、弾薬庫などの建屋が数棟ありましたが、現在は公衆トイレと広場があるのみ。子供たちがはしゃいでいます。

斜面を見る。掩蔽部には壁面の構造物が顔を出している。その上の石垣部分が横墻部分。あの展望台から全体像が掴める。
斜面を見る。掩蔽部には壁面の構造物が顔を出している。その上の石垣部分が横墻部分。あの展望台から全体像が掴める。

砲台側を見やると、砲撃や銃撃を守る掩蔽部の壁面があり、斜面から構造物の一部が顔を出しています。その上には各砲を連絡する通路があって、石垣が見える壁面は、砲座同士の間にあった横墻(おうしょう)と呼ばれる部分です。

二枚とも横墻部分。土塁が平たくなっているのは砲座間を結んだ道だ。
二枚とも横墻部分。土塁が平たくなっているのは砲座間を結んだ道だ。

この砲台跡のなかで一番遺構が残っているのは、左手にある左翼観測室です。斜面を登ると横墻が現れ、階段が見えます。この階段はくたびれているものの登ることができ、すると曲面の出っ張りと小部屋の入口、それに階段が現れます。この小部屋は中に入ることもでき、大人が立つほどの高さはないので、少し屈みながら入ります。

左翼観測室へ。草臥れた階段を上がる。
左翼観測室へ。草臥れた階段を上がる。
半円状の壁面と小部屋の入口がポッカリと口を開けている。入らねば……。
半円状の壁面と小部屋の入口がポッカリと口を開けている。入らねば……。
小部屋の入口部分。照明は無いものの真っ暗闇ではない。
小部屋の入口部分。照明は無いものの真っ暗闇ではない。

中はレンガ製で、何かの倉庫に使用していたのでしょうか。さほど大きな部屋ではなく、壁面にある窪みも用途がわかりません。照明を置くスペースくらいしか思いつきませんでした。

小部屋の中。スマホの広角機能で撮影したので広そうに見えるが天井は低く膝立ちでちょうどいい高さ。何かの資料か資材を置いていたのだろうか。
小部屋の中。スマホの広角機能で撮影したので広そうに見えるが天井は低く膝立ちでちょうどいい高さ。何かの資料か資材を置いていたのだろうか。

外に出てコンクリート階段を上がると、二手に階段が別れているものの、左手の階段がやけに狭く、上部が不自然にコンクリート板で蓋をされている状態でした。元々は何かあった雰囲気が漂います。1946年の米軍撮影航空写真を見ると、たしかに何かの建屋が確認できました。おそらく観測所があったのかと。その建屋を壊してコンクリートで平らにしたのではないでしょうか。

小部屋の右手にある階段を登ると……。
小部屋の右手にある階段を登ると……。
何やら中途半端な狭い階段がある。いかにも上から蓋をされたように不自然な構造。
何やら中途半端な狭い階段がある。いかにも上から蓋をされたように不自然な構造。
上から階段部分を望む。半円状の出っ張りも不自然だ。
上から階段部分を望む。半円状の出っ張りも不自然だ。
上に登ってみた。コンクリートで平坦な面となっているのを見ると後から整備された感が漂ってくる。右端の円形の構造物は戦後に造られた碑。
上に登ってみた。コンクリートで平坦な面となっているのを見ると後から整備された感が漂ってくる。右端の円形の構造物は戦後に造られた碑。
先ほどの階段部分。うーん不自然だ。
先ほどの階段部分。うーん不自然だ。
反対側から角度を変えて観察。石垣は竣工時のものだろう。コンクリートは明治末期から実用化されてきたので竣工後に改良されたのか。なおこの階段を上がると土塁の上に立ち展望台へ行ける。
反対側から角度を変えて観察。石垣は竣工時のものだろう。コンクリートは明治末期から実用化されてきたので竣工後に改良されたのか。なおこの階段を上がると土塁の上に立ち展望台へ行ける。
階段部を広角で。階段が三方向に分かれていて両側の階段の真ん中部分に観測室があったと思うとこの構造もなんとなく想像できる。
階段部を広角で。階段が三方向に分かれていて両側の階段の真ん中部分に観測室があったと思うとこの構造もなんとなく想像できる。
階段を上がって振り返る。どんな建屋が建っていたのだろうか。
階段を上がって振り返る。どんな建屋が建っていたのだろうか。

その他の遺構は半円状の観測所跡や換気塔などで、左右にカノン砲の砲座があったそうですが、左翼側はそれらしき平場があったものの、右翼側は同じような場所が見つかりませんでした。

堀へと続く階段があった。これは砲台として活躍していたときの階段か不明。
堀へと続く階段があった。これは砲台として活躍していたときの階段か不明。
左翼観測室の左手には換気塔が二基残っていた。おそらくこの下にあった弾薬庫の換気塔だろう。
左翼観測室の左手には換気塔が二基残っていた。おそらくこの下にあった弾薬庫の換気塔だろう。
左翼観測室を上がった土塁の上部に残る観測所の構造物。大谷石(と思う)で組まれた半円状の石垣だ。
左翼観測室を上がった土塁の上部に残る観測所の構造物。大谷石(と思う)で組まれた半円状の石垣だ。
右翼側の観測所石垣。
右翼側の観測所石垣。
この上部には何かあったのだろうか。
この上部には何かあったのだろうか。

元洲堡塁砲台の遺構は、以前訪れた観音崎の砲台跡よりも少なめで、どちらかというと地味ですが、土塁の形状から砲台跡の雰囲気はいまも十分に残っているので、明治初期の要塞の雰囲気は掴めます。

次号は、砲台として役目を終えて「陸軍技術研究所富津試験場」となったときの遺構を巡ります。今度は昭和初期のコンクリート遺構です。ではまた!

取材・文・撮影=吉永陽一