街が移り変わる中、昭和から変わらないスタイル
ドアを開けると、コロンコロンとカウベルの音が鳴る。奥のカウンターから「いらっしゃいませ」と気持ちの良い声が聞こえ、店の人がドア近くまで出てきてくれる。
『カフェ・ド・ランブル』の誕生は1948年。東京を焼け野原にした戦争が終わってからたった3年後のことだ。店を開いたのは現店主の伯父で、2018年に103歳で亡くなった関口一郎さん。日本中のコーヒー好きが尊敬してやまないコーヒー界のレジェンドだ。生のコーヒー豆を10年以上熟成させてから焙煎するオールドコーヒーを確立した人としても知られている。
最初は西銀座の路地の奥でお店を開き、今の銀座8丁目に移ってきたのは1970年代のこと。それ以来、店の改装などはせず、ほぼ同じ姿でお客さんを迎えている。
そのおかげか、今ではあまり見られない道具を目にすることができる。例えば、冷蔵庫。上のボックスに氷を入れて冷やすタイプだ。その上にあるのは古めかしい分銅を使うはかり。こちらもそうそう目にすることはないだろうが、『カフェ・ド・ランブル』では注文が入るごとにコーヒー豆をこのはかりで計っている。どちらも開店当初からずっと現役で使われているというからすごい。
古い道具を今も使っている理由を尋ねてみたら、現店主の林不二彦さんからは「壊れないから」と至極当然という答えが返ってきた。林さんが『カフェ・ド・ランブル』を継ぐことに決めたのは「ずいぶん前」という。「情熱とかそういうことではない」と、お店を継いだのは自然な成り行きだったようだ。
子供の頃から夏休みなどには店に出入りしていて、20歳前から店で働くようになった。その頃の先代関口さんの様子を聞くと、ときどき焙煎する以外は店のほとんどを妹さんやスタッフに任せていたという。林さんにとって伯父にあたる関口さんは50歳ほど上。会社員ならとっくに定年を迎えて隠居している年齢だった。
林さんは琺瑯(ほうろう)のポットを右手に、ネルのドリッパーを左手に持ってコーヒーを淹れる。動かすのはドリッパーの方で、ポットから落ちてくるお湯は極めて細く維持される。「濃いコーヒーを出すときは、少し蒸らさないといけないから。細く落とすことで、お湯を止めないで落としながら蒸らすため」と話してくれた。
コーヒーの淹れ方は、店の先輩たちから引き継いだのかと聞いてみると「熱湯を使わないだとか、そういう基本的なことは聞いたけど、結局は自分。飲んでみていいか、悪いか。それにモタモタやっていたらおいしいものもおいしくないでしょう? 同じ味でも手際良く出した方が、ね」と素っ気ないが、真摯においしいコーヒーを探求してきたことは間違いない。
ドリッパーの下でコーヒーを受けているのは、小さな銅製の打ち出し鍋。あつらえで作ってもらったものだ。この鍋はコーヒーをカップに注ぐとき、鍋の外側をコーヒーが滴らず、コントロールしやすいと林さん。随分前にお客さんとして来ていた鍋屋さんが考えてくれたものだという。
コーヒーしかない店にある、とびきりのこだわりと配慮
メニューの他にも、『カフェ・ド・ランブル』にはコーヒーへのこだわりと客への配慮がある。カウンターで存在感を放つオレンジ色のグラインダーは特注のもの。特別な歯を使っていて微粉が出ないため、スッキリした飲み心地につながっている。
また、注文すると必ずミルクや砂糖を入れるか尋ねられる。ブラックのお客さんには、落としたコーヒーをそのまま出すが、ミルクや砂糖を入れるお客さんには少しだけ火にかけてから出す。砂糖の溶けやすさや、ミルクを加えてコーヒーの温度が下がってしまうことを配慮してのことなのだ。
『カフェ・ド・ランブル』のお客さんには、近隣で働く人よりも別の街から訪れるファンが多い。つまり、わざわざ銀座に『カフェ・ド・ランブル』のコーヒーを楽しみにやってくる人がほとんどだ。もう何十年も通っている古株のお客さんも少なくない。
古くからの常連客は、それぞれお気に入りのコーヒーを注文しては、林さんたちお店のスタッフと移り変わる銀座の様子などを話して、そして飲み終わればさっと帰っていく。若い客たちも長居はしない。『カフェ・ド・ランブル』はコーヒー1杯に込められた数々のこだわりと共に、日常の小休止としての時間を楽しむ店のようだ。
取材・文・撮影=野崎さおり