“行灯殺しのガード”の現状
正式名称は“高輪橋架道橋”。“行灯殺しのガード”や“首曲がりトンネル”など、ギョッとする渾名の由来は、タクシーの行灯が擦れて壊れるほど、または身長の高い人は首を垂れないと頭頂部がガード天井にぶつかるほど低い。そんな状況から名づけられました。
“高輪橋架道橋”は、泉岳寺・高輪エリアと港南エリアを結ぶ最短ルートで、車の抜け道ルートとして重宝され、タクシー会社の中には行灯を低く製作して、“高輪橋架道橋”通過仕様にした車もあったほど。低くて長いガードは薄暗く、天井スレスレに車が走り、高身長の人は首を垂れて歩く。そんなスリリングな光景はいつしか高輪名物となり、わざわざこのガードへ訪れる人も現れました。一種の観光地みたいなものですね。
広大な車両基地は廃止となり、跡地は再開発され、“高輪橋架道橋”も段階的に廃止されることになります。2020年4月12日からは車両通行禁止となり、車が通行できる道路としては役目を終えました。車両通行禁止となった日からは、歩道として継続使用されています。ただ、数年後には近接して新たなガードを新設されるため、“行灯殺しのガード”と呼ばれたガードも、余命僅かばかりとなりそうです。
道路としては終了したが廃道ではない。歩道としては現役である。前回の国道駅に引き続き今回も純然たる「廃もの」ではない物件ですが、2019年11月15日に線路が付け替えられた山手線と京浜東北線の橋台跡が観察できるので、廃ものとして紹介します。
天井が無くなって青空が見えるガード
さっそく“高輪橋架道橋”の泉岳寺側へ到着してみると、ちょっと前まであった重々しい洞窟のような低いガード入り口は無く、現在は青空が広がる清々しい空間となっています。ガードの真上にあった線路が撤去されているのです。あの洞窟のような入り口は何処へ… 天井が無くなってガラッと雰囲気が変わり、なんか塹壕にいるような不思議な感覚です。
変化したとはいえ、左右の壁になっていた橋台は残存し、石積みや古めかしいコンクリート橋台の形状はそのままです。残っていて良かった。ここもそのうち撤去されていきますが、歩道として通行できるうちは観察できます。
先を進むと、一部分の天井は撤去されているものの、まだ低い洞窟のようなガードは健在で、進むにつれて天井が低くなっていくような感覚になりつつ、幾多のタクシーや車が付けたと推測できる天井の傷も判別でき、「都心の一等地にあった自動車の難所だったんだなぁ」と、傷を眺めながらしみじみ思うのです。
ということで、約220mの“行灯殺しのガード”散策は、あっという間に港南側へ出て終了です。あっけない(笑)。
ですがこのガード、道路となる前は水路だったのです。言われてみれば高さも低く、なるほど水路の名残はありますね。そこで再び泉岳寺側へ戻ります。旧山手線があった場所へ戻り、品川方面の橋台を見ると、金網越しに水路が望めます。そう、橋台の隣は水路が現役なのです。天井が無くなったおかげで、水路と道路の間は橋台で隔てられているのが、なんとなく分かります。
ガードが道路として使用開始されたのは、大正時代のことです。それ以前は道路部分も水路で、船の航行のために整備されました。「はて、地上なのに船?海だったの?」 はい、第一京浜道路より東側は、東京湾だったのです。明治初めまでは第一京浜の辺りが海岸線でした。
鉄道開通のため海上に築堤が造られた
海が埋め立てられるきっかけは鉄道です。日本初の鉄道を建設する際、本来は海岸線に沿って線路を敷設したいが、東海道沿いのために用地買収が困難であり、軍の施設があって測量すら出来ません。そこで陸上の敷設は諦め、海上に築堤を築いて線路を通すこととなり、明治3年(1870)より工事が開始されました。築堤用の土砂は、近隣の八ツ山や御殿山を切り崩して使用し、石垣の中には江戸末期に築かれた“お台場”のものなども転用されました。
海上築堤は2年の歳月で完成し、明治5年(1872)に鉄道が開通。汽笛一声の陸蒸気とともに、築堤も錦絵に描かれています。
海上に築いた築堤は船が通れるように、数カ所の水路が設置されました。そのうちの一ヶ所がこの“高輪橋架道橋”です。なるほど、ここは日本初の鉄道の築堤に造られた水路跡であり、いま立っている場所はかつて海だったわけだ。“行灯殺し”から、何か壮大なスケールの話になってきたぞ。そろそろ纏めないとややこしいことになりそうな予感。
いやいや、話はここで終わりません。海上の築堤は埋立地増設のため消え、ここを除いた他の水路は埋め立てられ、人々の記憶から遠ざかりました。築堤は埋め立て時に取り壊したのだろうと、たぶん、なんとなくそう伝わっていったのだと思います。明治後期から大正、昭和と、埋立地が造成されていくたびに鉄道敷地は広くなり、汽笛一声の線路があった場所は、いつしか山手線や京浜東北線が走る場所となりました。
山手線の線路を剥がすと現れた高輪築堤
しかし、その山手線の線路を剥がすと、石垣が地中から現れたのです。しかも、築堤がほぼそのままの形状で掘り起こされました。取り壊されたわけではなく、そのまま土に埋もれたのです。
この海上築堤は“高輪築堤”と呼ばれて、現在も発掘作業中です。その中には水路の跡と橋台も発掘され、橋台の石垣の形状から、当初は複線規格だったものが後に増線して三線となり、橋台の増設部分も判別できています。石垣の状態もよく、波から築堤を守る杭も存在したままでした。明治初期の土木技術で造られた築堤が、令和になって誕生した高輪ゲートウェイ駅の目の前に現れたのは、本当に不思議なことです。
“高輪築堤”は百数十年も地中で眠り、全然気がつかなかったと、誰もがそう思っていることでしょう。でも、ちょっと思い返してみてください。今さっき観察した“高輪橋架道橋”は、“高輪築堤”の水路のひとつだったのです。道路の姿が当たり前だったので気がつきませんでしたが、ずっと前から身近に“高輪築堤”の存在を匂わせていたことにもなります。
旧山手線の橋台跡をもう一度観察してみました。たしかに石積みではあるけれども、これが明治初めから存在したのかはちょっと疑問が残ります。もしも石垣が“高輪築堤”の時代からのものだったとしたら、それは驚くべきことです。そうだったら、我々はガードを通るたびに、明治初めの石垣に触れていたのですから。実際、この石垣はどうなんでしょう?
“高輪築堤”は再開発地区に存在するため、気軽に見ることができません。高輪ゲートウェイ駅から京浜東北線の北行へ乗車し、左側のドアに立って外を見てください。山手線を高架橋でオーバークロスするとき、工事現場にチラッと石垣が見えます。それが“高輪築堤”の石垣です。
“高輪築堤”は日本初の鉄道の遺構であり、明治初期の土木構造物が、完璧に近い形で出土されました。ただし場所が再開発地区のためにどこまで保存されるか、現段階では分かりません。
イチ鉄道ファンとしては、新たな街区と築堤がうまく調和できたら… 例えば、令和に誕生した高輪ゲートウェイ駅を降りたら、明治初めの鉄道遺構に触れられるという、歴史を感じさせられるように保存されたらなと願っています。
<おまけ>
最後に、地上からの写真だけでは分かりづらいので、私の本業である空撮写真で“高輪築堤”と“高輪橋架道橋”部分の空撮をお見せします。2020年12月11日に空撮しました。現在はもうちょっと発掘作業が進んでいるはずです。築堤は、空撮でないと判別できない究極の「廃もの」ですね。どうぞご覧ください。
写真・文=吉永陽一