“水の城”の面影を探しに
亀岡なのになぜ亀山城なのか。古くはこの地は「亀山」だったが、明治維新直後に、伊勢亀山(現在の三重県亀山市)と混同するから、亀山から亀岡に改名させられたとか。そんなのあり? こっちは京の都から一山越えてすぐ、伊勢亀山よりはるかに近い。改名するなら逆ではないか。だいたい、全国に同名の地名なんて腐るほどあるのに──と、地元民でもないのに釈然としない思いを抱きながら、亀“岡”駅からテクテク南へ歩いているとすぐに、お堀端(ほりばた)にたどりついた。
今回は本連載には珍しく、比高のない平城だ。決して平城が嫌いなわけではない。ただ平城は後世に地形改変の影響を受けやすいため、在りし日を体感しづらい。亀山城も然(しか)りで、縄張を観る限り、残念ながら城の遺構はごくわずかだ。お堀端の案内看板に、城とその一帯の絵図が記載されていた。
川の流れと水堀を巧みに用いて、見事な防御体制を築いているのがよくわかる。内陸にありながら、亀山城は“水の城”といってもよいのかもしれない。
改変されたとはいえ、その名残が感じられる場所はある。先程の光秀像の後ろには幅十数mはある水堀。
ところで先程の絵図は、江戸時代のもの。ということは光秀時代の亀山城ではないのでは? と思った人はご明察。その通りだ。光秀が亀山城を築城したのは天正5年(1577)で、その5年後に没している。以後、豊臣家の重臣が押さえ、江戸時代に入ると天領に。西国大名総動員の天下普請、縄張担当は藤堂高虎。わざわざ今治城から層塔型天守を移築し完成。この絵図に描かれているのは、「江戸時代築の亀山城」と言っていい。
とはいえ、場所は同じ。そして光秀時代の遺構も、わずかながら残っていると聞く。一世一代の重要な決断を下した地ともなれば、訪れぬ理由はない。
重厚感あふれる天守石垣
秋が徐々に深まりつつある10月下旬。晴天で、午前中のまだ早い時間帯に足を運んだせいか、清涼で心地よい空気がそこに立ち込めている。
亀山城は現在、宗教法人「大本」が所有する「天恩郷」と名付けられた聖地。一直線に伸びる並木道を、信者の方が竹箒でせっせと掃き清めている。清涼感があふれているのはそのせいかもしれない。受付を済ませてから城内へ。
さて、亀山城をどこから攻めるか。城攻めで一番、ワクワクする瞬間だ。城域はそれほど広くないが、それでもいくつか選択肢がある。迷った末、今回はいきなり中枢部へ突入することに。
小径を抜けて、本丸へ。
小さな木戸をくぐると、いきなり度肝を抜かれる高石垣が待っていた。
熊本城のような“反り”こそほとんどないが、どっしり構えた重厚感がたまらない。右斜め、正面、左斜めと、あらゆる角度からシャッターを切らずにいられない。
さらに右脇に目をやると、きちんと折れも伴い、横矢がかかる形に。
この亀山城のシンボル的な天守石垣は、明智光秀時代のものではない。それどころか、藤堂高虎の築城時のものでもない。実は亀山城にはもう一人、築城者がいる。
その男の名は、出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)という。
明治以降にもうひとりの築城者がいた
後に宗教法人・大本の教祖となる出口王仁三郎が生まれたのがこの亀岡の地。明治4年(1871)生まれで、明治10年(1877)の廃城令により破却される寸前の亀山城を少年時代に目の当たりにした、ギリギリ最後の世代だ。40数年後の大正8年(1919)、売りに出されていた亀山城跡の土地を王仁三郎は取得。荒れ放題だった城跡を、自ら陣頭に立ち再建することになる。
土をならし、埋もれた巨石を掘り起こしては、石を積み直す。地道な努力の末、昭和2~3年(1927~28)頃にはひと通りの石垣修復が完成。明治初期に失われた城郭が、昭和になり蘇ったのだ。このようなケースは、全国でも稀にみる例だといえる。
それから約10年後の昭和10年(1935)12月、亀山城および大本の各施設は、時の政府によりことごとく爆破され破壊し尽くされる。罪名は不敬罪および治安維持法違反。既に日中戦争間近、太平洋戦争へとまっしぐらの挙国一致の時代だった。終戦直後の1945年秋、治安維持法の無罪が確定し、亀山城とその一帯の土地は全て、大本に無条件返還された。
ここからがすごい。敗戦直後の日本で、王仁三郎は宗教施設の復元とともに、亀山城の再構築にも着手する。70を越えた老城主は、日々現場に通い、前回と同様に築城の音頭を取ったのだった。明治初期のいくつかの戦乱と、戦時の空襲による被災を除けば、近現代でこれほどの被害を受けた城は、他にない。
ちなみに光秀時代の穴太積は、天守石垣の基部にわずかに残っている。そして、出口王仁三郎の出身地は、亀岡市曽我部町“穴太”。運命を感じずにはいられない。
天守石垣から先は神域だが、2021年3月末日まで、総合受付にて「ギャラリーおほもと」の入館券を購入すれば、銀杏台まで立ち入ることができる。横矢のかかる石垣の先には、櫓台のような高台上に大イチョウが見える。光秀お手植えと伝わるが、江戸中期の台風で折れた際、若木を新たに植え直したものとも。いずれにせよ、この城の波乱の数百年を見届けてきた巨木には違いない。
本丸から引き返し、周辺を散策。噴水のあるこの池は、かつての内堀の跡だという。陽光に照らされなんとものどかな雰囲気。脇に伸びる石垣も、かつての亀山城の姿を再現したものだとか。
その石垣の角を折れて少しゆくと、刻印石を発見。石垣は廃城令の破却後、石材として搬出されたものもあるというから、必ずしも今ある全てが往時のものではないだろう。だが、随所にこういう発見があると、それだけで嬉しい。藤堂高虎の天下普請のときのものだろうか。
光秀以上に、“数奇な運命”という言葉を絵に描いたような亀山城。再建された遺構にもドラマあり。
亀山城の支城・保津城の構造に悩む
盆地のほぼ中心に位置する亀山城には、いくつかの支城がある。特に城から見て東側、京の都の方角に多いのは、戦略的に見て当然。亀山から京へと抜ける峠道はいくつかあるが、そのとば口をきちんと、それらが押さえている。
そのひとつで、最も遺構がよく残るのが保津城。俗に「明智越(あけちごえ)」といわれる峠道からの侵入を守る位置にある。本能寺の変の際、光秀軍が通った道との説明もあるが、真相は定かではない。
いかにも古道の雰囲気漂う道をほんの数分歩くと、見えてきた。
これを竪堀と呼ばずしてなんといおうか。よもや今歩いてきた堀底道も竪堀だったのか? やはり遺構が初めて目の前に現れた瞬間は、城歩きで一番ワクワクする。奥にはもう一本、別の竪堀があり、その脇には小島のような出丸。
さらにその奥には、数mにおよぶ土橋。片側が急斜面で、片側はかなり広い窪地に。まるでダムの堰堤のようになっている。
コンパクトだが、いちいち素晴らしい。土の城として申し分ない。と思って満足感に浸っていたのだが、ここである疑問が浮かんだ。これらの保津城の各遺構、いずれも峠側というより、亀山城のある亀岡盆地側を向いて防御態勢を敷いているように見えるのだ。峠のほうが標高が高く、盆地側のほうが低いので、必然的にそうなってしまうのかもしれないが……。
峠道を下って攻めてくる敵に対して、この城でいかに防ぐか。無い知恵を絞って考えてみたのだが、どうにも具体的な戦術が思い浮かばない。かといって、遺構からして城であることは間違いなさそうなのだけれど……。
土の城は全国で随分見てきたつもりだが、まだまだわからないことがある。「光秀の真意はいったい――」と頭を悩ませながら、峠の麓の小さな城をあとにした。
『亀山城』詳細
『保津城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂) 協力=京都亀岡フィルムコミッション