ミドリカワ書房
本名:緑川伸一。シンガー・ソングライター。1978年、北海道川上町生まれ。2005年、『みんなのうた』でメジャーデビュー。日常に潜むあらゆるテーマを、物語のような詩世界とキャッチーなメロディーで紡ぎ、聴くもののハートを捉えて放さない。最新作『屁のような』を含む過去作品サブスク解禁中!
——緑川さんは、どのような経緯で三鷹に住まれていたのですか?
ミドリカワ書房 : 生まれ故郷の北海道から上京してきたのは2001年。きっかけは、レコード会社に送ったデモテープだったんです。ミュージシャンに憧れて買ったアコースティックギターで、オリジナルソングをテレコで一発録りした音質の悪〜いやつ。それが一人の変わり者のディレクターの目にとまったようで。
——まさに、ミュージシャンとしてデビューするために上京されたんですね。
ミドリカワ書房 : ただそんなに素直に喜べる話でもなくて、当時はまだ音楽業界がバブリーだった頃の名残があったんでしょうね。見ず知らずの2人のメンバーとともに、「君たちでバンドを組みなさい」と言われたんです。しかも、僕はなぜかベース担当だった(笑)。歌がちょっとお粗末だっつーことでね。まず、上京前に住んでいた札幌の自宅までいきなりベースが送られてきたんですよ。最初は 「プレゼントかな?」 と思って喜んでたんですけど、商売道具を送りつけてきただけだった。
——(笑)。ちなみにどんなバンドだったんですか?
ミドリカワ書房 : ボーカルの方がLUNA SEAが好きで、ちょっとビジュアル系っぽい(笑)。で、武蔵境に用意してもらった家で、いきなりメンバー3人での暮らしが始まったんです。でもその生活は短くて、半年くらいだったかな? 最終的にお偉いさんにプレゼンライブを見てもらったんですが、「こりゃダメだ」ということになって。
——まさかのデビューできずに解散ですか (笑) 。
ミドリカワ書房 : ただ幸運だったのが、「君だけちょっとソロで続けてみるか」と言ってもらえて、引き続き東京に住んでがんばってみることにしたんです。それで、三鷹駅南口エリアの東側、下連雀の「仲町通り」という商店街にある、小さなアパートの2階に引っ越した。確かこのあたりだったと思うんだけど……あ、あれですね。残ってる残ってる!
次々よみがえる『みんなのうた』創作秘話
——あそこに実際緑川さんが! 今、関係ない僕ですらゾワッとしましたが、ご自身ではいかがですか?
ミドリカワ書房 : う〜ん……なんだか、そんなに時が経ったとは思えないですね。三鷹の街自体もそうですけど。
——意外とクールですね(笑)。しかし、勝手にすごくイメージ通りなところに、ちょっと感動しています。代表曲のひとつ『リンゴガール』では、まさにこういうアパートを舞台にしたPVが作られていましたね。
ミドリカワ書房 : あ〜、そうそう。あの曲に「毎週土日は大概彼氏が泊まりに来る 時々聞こえる笑い声 夜になればロマンポルノ 男の声がいつも余計なんだよ」なんて歌詞があるんですが、あれなんかまさにこのアパートでの生活がヒントになりましたね。実際、隣の部屋から頻繁に聞こえてきたので(笑)。
——その現場がここだった (笑) 。
ミドリカワ書房 : 1stアルバムの『みんなのうた』に収録した曲は、ほぼこの家で書いたんじゃないかな。ここは本当に狭くてね。「ものすごい大作を書いてやるぞ!」って意気込んで作った『馬鹿兄弟』という曲があるんですけど、実際は洗濯機の上にノートを置いて書いてたのを覚えてますから。
——その事実を知って曲を聴くと、さらに深みが増しそうです。
ミドリカワ書房 : その頃僕は武蔵境のコンビニでバイトしてたんですね。その時の同僚で、当時高校生だったから、僕より5、6個は下の男の子とおしゃべりしてたら突然、「緑川さん、僕は“幻の父親”なんです」と言い出したことがあったんです。「何それ?」って聞いてみると、どうやら少し前に彼女が妊娠してしまい、中絶せざるを得なかったと。
——ありそうでなかなかない、リアルな話ですね。
ミドリカワ書房 : ただ、あとから聞いたところによると、その娘には他にもいっぱい彼氏がいたらしく、「本当に自分の子供だったのかはわからないんですけどね」って。その話に非常になんというか、心を動かされまして、「歌にしていいかい?」と聞いたら「ぜひお願いします」と言ってくれて。それで生まれたのが『雄と雌の日々』という曲だったんです。
——なんと! 実話だったんですか!
ミドリカワ書房 : 「七人とやってた」という歌詞はちょっと盛りましたけどね(笑)。
そして、三鷹を離れて今思うこと
——三鷹はまさに、ミドリカワ書房の出発の地だったんですね。
ミドリカワ書房 : ですねぇ。ここに住んだのは2年くらいだったかな。それから南口の西側、上連雀というエリアに引っ越して。駅からは遠いし、また古いアパートなんだけど、部屋がひとつ増えて少しは快適になりましたね。
——もう洗濯機の上で曲を書かなくてもよくなったわけですね。
ミドリカワ書房 : はい(笑)。 そこには4年いたかな? それで今度は久我山に引っ越したんですが、しばらくして個人的に「人生、なかなかつらいな」という状況に陥りまして。まったく違う街で運気を変えてやろうと、家賃の安い街を探して、江戸川区に引っ越しました。それからはずっとそっち方面ですね。
——三鷹の街との違いはありましたか?
ミドリカワ書房 : 当時の僕にとっては「三鷹=東京」だったので、最初は違和感がすごかった。空気からして違うなと。まず一之江という街に住んだんですが、『ビー・バップ・ハイスクール』からそのまま飛び出してきたような人が普通に歩いてて、「俺は夢でも見てるのか?」って。
——(笑)。
「何でも歌にしてやろう!って気概がありました」
——そういえば、緑川さんはお酒好きだと聞いたのですが、当時は三鷹の街で飲まれたり?
ミドリカワ書房 : それがね、ぜんぜんだったんですよ。なんせ若かったですからね。「この店、渋くていいなぁ」なんつって飲むという価値観がなかった。何度か行ったと記憶してるのは、『一休』っていう安いチェーン店くらい。こうやってあらためて三鷹を歩いてみると、雰囲気のいい酒場もたくさんありますね。今思えば、もったいなかったなぁ。
——それでは、三鷹では主にどのように過ごされていたんでしょうか?
ミドリカワ書房 : 当時はヒマだったですからね。思い出されるのは井の頭公園。あとはやっぱり、太宰治。禅林寺というお寺に太宰の墓があって、よくふらふらとお参りに行ってました。三鷹は古本屋が普通にそこらにあるのもよかったな。僕は昭和の小説に影響を受けた曲を書くことも多いので、人生の中でも特に本に親しんだ時代だったなぁと。今ほど娯楽が無かったってのもありますが。
——やっぱり本から刺激を得ることが多かったんですね。
ミドリカワ書房 : それ以外はとにかく、ボロアパートで曲を書いていた。当時は「何でも歌にしてやろう!」って気概がありましたからね。ミドリカワ書房の初期の曲たちには、確実に三鷹という街のエッセンスがこめられているんだなぁと、今日、あらためて思いました。
取材・文=パリッコ 撮影=山出高士
『散歩の達人』2021年1月号より