1960年からそこにある、巨大な像

最大の特徴は、過剰な装飾。三越によれば、この像は「天女が瑞雲に包まれて、花芯に降り立つ瞬間の姿」が表現されているという。その天女の背景部分がとにかく密、なのだ。白い天女の顔がにわかに見つけられないほど、後背部は雲の渦やたなびく衣で埋め尽くされている。裏側の雲中には48羽の鳥が飛び、台座部には宝石がびっしりと並ぶ。うねるようなそれらの装飾はすべて木で精巧に彫られ、合成樹脂で溶いた岩絵具で彩色されたもの。ただごとではない過剰さ、手の込み様である。ホール壁面の赤、卵黄色の大理石と天女像の色彩は見事に調和し、吹き抜け全体が天女像の格納庫であるようにさえ見える。三越によれば、天女像はお客様に対する「まごころ」を具象化したシンボルだそうだが、その圧倒的な美しさは、まごころという言葉が持つ柔らかなイメージを超越しているように思う。

この天女像が完成したのは1960年。 三越創立50周年記念事業の一環として、彫刻家・佐藤玄々(さとうげんげん)と、その弟子らによって制作された。玄々は近代日本の重要な彫刻家の一人である。完成からちょうど60年目にあたる2020年、三越は3月から9月まで「三越アーカイブス日本橋」というスペースを本館中央ホールに設置し、天女像と玄々に関する貴重な資料を展示していた。故郷福島の偉人・佐藤玄々に興味を持ち続けてきた私は、今年、玄々が再注目、再評価されるのではと期待していた。しかし、残念ながら、そうしたムーブメントを感じられないまま冬を迎えてしまった。2020年が終わる前に、あらためて玄々と天女像の価値を考えたいと思い、玄々研究の第一人者、福島県立美術館 増渕鏡子学芸員に話を聞いた。

彫刻家・佐藤玄々とは何者だったのか?

まず、佐藤玄々とはどんな人だったのか。増渕氏は「国際的な視点を持ち、独自の解釈で日本の伝統木彫を近代化した彫刻家」と定義する。玄々は、明治21年(1888)、福島県相馬市の宮彫師の家に生まれた。宮彫とは、日光東照宮の眠り猫、三猿に代表されるような寺社の柱や欄間などに施した彫刻のことである。幼い頃から家業を手伝い彫りの技術を身につけた玄々は、明治40年(1907)、18歳の時に彫刻家になることを志して上京。山崎朝雲に師事。木彫技術を磨き、やがて日本美術院で力を認められ、大正12年(1923)にはパリへ留学。ロダンの弟子で近代フランスを代表する彫刻家ブールデルに学んだ。パリを去る時、師にもらった言葉は「汝の血を以って 汝が祖国の魂をつくれ」。その言葉の通り、帰国した玄々は次第にルーツである宮彫りや仏像など、日本古来の美術に影響を受けた作品を生み出していった。

そして、1951年、三越の当時の社長岩瀬英一郎氏から記念像の制作を依頼される。玄々は京都・妙心寺大心院の庭に専用アトリエ「阿吽洞」を作り、制作に没頭していく。岩瀬社長とは、費用400万円で2年のうちに作ると約束したはずが、作るうちにだんだん像は大きくなり、制作期間も延長。結局、10年をかけ、費用は数億円まで膨らんだ。この像の完成から3年後の1963年、玄々は75歳で亡くなる。玄々にとって天女像は、「晩年の10年間を費やした木彫の集大成だった」と増渕氏はいう。

除幕式の様子。(写真提供=三越)

佐藤玄々は、まぎれもない天才だった。だが、現在その名は広く知れ渡っているとはいえない。増渕氏は知名度の低さについて、「東京・馬込のアトリエが戦災にあい、大作の多くが焼失してしまったこと、直系の子孫がいなかったので作品資料が散失したこと、《天女像》が、制作当時のモダニズムの風潮の中で評価されなかったことなど、様々な原因があると思われます」と話す。東京国立博物館、福島県立美術館などに作品は収蔵されているが、数は少なく、人の目に触れる機会は限られている。それゆえ、玄々は「幻の天才」と呼ばれてきた。代表作である天女像を公共の空間でいつでも見られること自体が、実は尊いことなのだ。

東京にはもう一つ、玄々の代表作がタダで見られる場所がある。日本橋の三越から歩いて約20分、竹橋駅2番出口を出てすぐの大手濠緑地にあるブロンズの「和気清麻呂像」だ。増渕氏によれば「師ブールデルの彫刻に影響を受けたモニュメント(記念像)彫刻の代表作」。昭和15年(1940)に完成したこの像は、玄々の代表作であると同時に、当時の日本の皇国史観を伝える記念碑としても意味深い。

過剰なほど豪華絢爛装飾の理由

再び天女像に目を向ける。あの装飾の過剰さはどこからくるのだろうか。増渕氏は2つの理由を挙げた。「一つは、制作の途中で日本橋三越のホールに試作模型を置いてみたところ、空間に対して小さく感じ、その後光背の雲部分を拡大したためです」。玄々は空間全体との調和を最初からイメージしていたということだろう。その結果、「天女像そのものより光背が大きく、装飾に埋もれるような表現になっていったのです」。

二点目は、原点回帰だ。「玄々の実家が代々営んでいた、宮彫彫刻を意識していたことが挙げられます。日光東照宮に代表される極彩色の装飾は、日本独特のユニークな木彫です。建造物ともいえる巨大な像を作るに当たって、自分の原点に回帰したのではないでしょうか」。

用意したのは京都・貴船の山にあった樹齢500年のヒノキの大木。約11メートルの大きさの像で、しかも大部分に繊細な彫りを施すとなれば玄々1人では到底作れない。制作には延べ10万人の職人が関わったという。妙心寺での当時の制作風景の写真が残っている。そこには天女の顔に弟子らしき人物が彩色を施したり、足場を組んで後背のパーツを組み立てる作業の様子が写る。数年前、妙心寺を訪ねた時、そこを管理する女性は幼い時に目にした玄々の姿を覚えていた。白く長い髭をたくわえた玄々はマイクを持ち、スピーカーを通して作業の指示を与えていたという。あの異形を考え出した玄々は偉大だが、名もなき協力者たちの力があって初めて、天女は出来上がった。今も台座には共同制作者の名前が刻まれている。

工房内でのパーツ製作の様子。(写真提供=三越)
工房内での組み立て作業の様子。(写真提供=三越)

この夏、筆者が日本橋三越本店本館で天女像を見上げていると、従業員の方が話しかけてくれた。「最近はコロナ禍の収束を願って、と見に来られる方もいらっしゃるんです」。天女像は仏像でもなんでもなく近代の彫刻作品なのだが、祈りたくなる気持ちは分かる気がした。過去、年末には天女像の前で「第九」の合唱が行われるなどさまざまな催しが行われてきたが、今年は感染状況を考慮し、そうしたイベントを控えるという。もし、日本橋近くを通ることがあれば、佐藤玄々という稀代の彫刻家を思い、そっと天女像を眺めてほしい。

取材・文・撮影=高場泉穂