亮一の下宿は湯島天神裏にある民家の2階。狭い路地にあり、昼間も薄暗く湿気がこもってカビ臭い。家の前の路地を風体の怪しい者たちがウロついて治安も良くなさそう。また、現在の恋人と元夫とひとつ屋根の下、川の字になって寝起きするのも気まずい。亮一も居心地悪いのだろう、部屋にはあまり帰って来ない。
間もなく千代は事務員の働き口をみつけた。収入の目処が立ったところで、小石川駕籠町の女髪結店(美容院のこと)の2階に間借りして引っ越す。この界隈は江戸時代の武家地、その名残で緑樹の繁る広い庭のある屋敷が多い。また、高台にある家の2階の部屋には、陽光が降り注ぎ乾いた清浄な風が流れてくる。湯島天神裏の薄暗く湿気でじめじめした路地に比べると環境は申し分ない。
しかし、家賃はそれなりに高い。この頃には忠の実家からの仕送りが完全に途絶えて、千代の稼ぎだけが頼り。月給13円では、物価の高い東京暮らしは厳しい。そこで千代はさまざまなアルバイトを掛け持ちした。
ウェイトレス姿がよく似合う“文壇のアイドル”
千代は本郷の西洋理店「燕楽軒」でウェイトレスをやるようにもなる。ここは編集者や作家などの溜まり場で、常連には芥川龍之介や久米正雄、佐藤春夫といった一流作家の名前がずらりとならぶ。現代なら「業界人が集まるおしゃれなレストラン」といったところか。
本郷三丁目交差点から本郷通りを100mほど北へ、菊坂と接する角地に「燕楽軒」はある。「築地精養軒」で料理長を務めた西尾益吉が開いた店で、3階建ての大きな洋館がひときわ目を引く。界隈に多い学生相手の食堂なら定食で10〜15銭が相場だが、「燕楽軒」だと昼のランチでも1円はかかる。それは労働者の1日分の稼ぎにほぼ相当する額だった。
派手な目鼻立ちの千代は、洋装ウエイトレス姿が映える。すぐに常連の文士たちのアイドル的存在になり、誰が彼女を落とすのか競争に。なかでも一番熱心に口説いてきたのが、後に直木賞作家となる今東光(こん とうこう)だった。当時はまだ無名の存在で、高等遊民を気取った不良青年といった感じだろうか。
千代が住む小石川駕籠町から「燕楽軒」までは直線距離で3kmくらい。金欠の彼女は徒歩通勤していたのだが「夜道のひとり歩きは危ない」と今が言いだし、千代に付き添い家まで送り届けていた。彼はそれを「逢瀬」と言って仲間に自慢したという。
「燕楽軒」とは本郷通りを挟んだ斜向かいには、『中央公論』の編集部が入居していたビルがある。その名物編集長だった滝田樗陰(たきたちょいん)もこの店の常連で、毎日昼休みになると太鼓腹を揺すりながらやって来る。
樗陰は気前のいい男で、食事を終えるといつも50銭銀貨をテーブルに置いて立ち去る。現代の感覚だと2000〜3000円といったところ、千代はチップ欲しさで樗陰の来店をいつも心待ちにしていたという。樗陰だけではなく、常連の作家や編集者たちはみんな羽ぶりがいい。
明治末期に全国に3000店程度だった書店の数が、大正時代に入った頃には1万店を越えるまでに急増した。雑誌や書籍の点数や発行部数も増えつづけ、業界は潤い“出版バブル”の様相を呈していた。
千代も故郷の同人誌に小説や詩を投稿していたのだから、当然、この状況に心動かぬはずがない。普通の仕事では稼げない高額の原稿料は魅力だ。それで創作への意欲が再燃したようで、また小説を書くようになる。
夫には「すぐ帰る」と言ったのだけど……
この後、北海道拓殖銀行に就職した忠に従って彼女も札幌に引っ越すことになる。正式に結婚して妻になるのだが、小説家への夢をあきらめてはいない。同人誌などに寄稿しながら小説の修業に明け暮れていた。
大正10年(1921)1月には、時事新報が募集した懸賞小説に千代が投稿した短編小説が一等入選。それで自信をつけて今度は原稿用紙100枚以上の大作『脂粉の顔』を書きあけ、これを樗陰のもとに送り『中央公論』でもデビューを果たすのだった。
上京して樗陰に会うと「原稿料は、原稿用紙1枚につき3円です」と言われ、高額紙幣の10円札が束になって入っている分厚い封筒を手渡された。122枚の原稿用紙が366円の大金に化けた。女性の花形職業であるタイピストの月給が35〜40円、工場で働く日給月給の工員だとフルに働いても月収は25〜30円程度といった頃である。こんなに稼げるのなら、東京でひとり生きていける。そんな自信が芽生えるにも十分な額だった。
夫の忠には「すぐに帰って来るから」と言って上京したのだが、大金を目にして心が揺れる。このまま札幌には戻らずに、忠と別れることも覚悟の上で、東京で暮らし本格的に作家活動を始めようと考えるようになる。
数日後、千代は再び中央公論社を訪れた。そこで樗陰から尾崎士郎を紹介される。この10年後に『人生劇場』がベストセラーになるが、この時はまだ無名の青年だった。
千代が一等入選した時事新報の懸賞小説で、尾崎も二等入選を果たしている。それで「奇遇だ」ということになり、樗陰が面白がってふたりを会わせることにしたという。それが、運命の出会いになる。千代はイケメン好きの面食いで、尾崎はストライクゾーンど真ん中だったようで、ひと目惚れ。出会った瞬間から恋に落ちていたという。
出会ったその日に同棲生活が始まった!?
この時、たまたま同席していた評論家の室伏高信と3人で、尾崎が泊まっていた「菊富士ホテル」に行って酒を酌み交わすことになったのだが……ふたりはすっかりいい感じに。千代はその夜から「菊富士ホテル」で、尾崎と同棲するようになる。
札幌で千代を待っていた夫も、しばらく後にすべてを悟り、諦めて離婚を承諾したという。
ふたりが暮らした「菊富士ホテル」は、かつて千代が働いていた「燕楽軒」からも近い。「燕楽軒」の左側にある路地、小石川方面に向かってゆるやかに下る菊坂に入る。道沿いには質屋や飲食店、古本屋、銭湯などが軒をつらね、連れ立って歩く学生風もよく見かける。界隈には帝大生相手の学生下宿が多くある。
菊坂を300mほど下ったところの四辻を右に曲がる。と、今度は急勾配の上り坂。その頂に3階建ての大きな洋館が聳えている。
大正3年(1914)に完成した「菊富士ホテル」の新館は、煉瓦と御影石を組んだハイカラな外観と、西欧の城にあるような屋根の上の塔が印象的。また、この時代にはかなり珍しいイルミネーションが屋根や壁に設置してあり、夜にはそれが美しくきらめく。菊坂を行き交う人々のランドマーク的存在だった。
「菊富士ホテル」は明治期に創業された学生相手の下宿屋だったが、大正3年(1914)の新館完成を契機にホテルに転業した。外国人旅行者の利用を当て込んでいたが、実際には“高級下宿”として利用する日本人が圧倒的に多い。文化人や知識人に好まれ、著名な作家や画家たちが暮らすようになる。
居住設備は東京でも最良、また、家賃のほうも「東京で一番高い下宿」と評判だった。いちばん安い部屋でも1カ月15円、朝夕の食を付ければ70〜80円。帝大卒の高給取りの月給に相当する額だ。当時の尾崎はまだ作家としての稼ぎがなく、千代もデビューしたばかり。この家賃の支払いに四苦八苦していたようである。
ふたりが暮らした部屋は、3部屋がならぶ一番奥の突き当たりの8畳間。障子を開けると、廊下を隔てた中庭の眺めが楽しめる。なかなか居心地の良さそうな感じだが、「菊富士ホテル」について、千代や尾崎が書き残したものは見あたらない。滞在期間があまりに短かった。同棲するようになって2〜3カ月が過ぎた頃、ふたりは「菊富士ホテル」を出て、行方をくらましてしまった。
高い家賃を払いつづけるのが苦しかったことにくわえて、身辺が騒がしくなっている。東京朝日新聞に「千代女の事ども」というタイトルのコラムで、尾崎との関係がスクープされた。『中央公論』でメジャーデビューした千代は注目の新人作家、若い美人ということもありなにかと目立つ存在だった。それが夫を捨てて上京し、胡散臭い無名作家と同棲しているのだから格好のネタになる。作家や文化人が多く暮らす「菊富士ホテル」には、新聞や雑誌の記者も多く出入りしている。それだけに居心地が悪かったのだろう。
取材・文・撮影=青山誠







