お話を伺ったのは
角屋 文隆さん
精密機器メーカーでITエンジニアとして勤め、2019年に独立。フリーランスとなり、同時に家業の『金春湯』を引き継いだ。2020年に手掛けた大井町『すえひろ湯』の再オープンも話題に。
「小さかったお前を俺が風呂に入れてやったんだ」
ちょうどいいぬる湯に肩まで浸かると、思わずほうっと声が出た。じわ〜っと温まるにつれ体の力が抜け、少しずつ筋肉がほぐれていく。ひと息ついて熱湯(あつゆ)に移れば雑念が消え、気持ちがふっと凪(な)ぐ瞬間が。頭の中に残ったのは、今日の楽しかった思い出だけ。散歩の途中に出会った人や景色、心底堪能した食事だけが自然と思い浮かぶ。
東京都浴場組合によると、都内にかつて2000軒以上あった銭湯は1968年を境に減少の一途をたどり、現在は500軒以下だという。風呂付き住宅が普及し、利用客が減ったことも原因の一つで「うちも似たようなもの」と『金春湯』の4代目・角屋文隆さん。銭湯を営む家に生まれ、「古い常連さんには『小さかったお前を俺が風呂に入れてやったんだ』と今も言われます(笑)。僕が子供の頃にはお客さんが大勢いたんです」。大学卒業後、就職を機に実家を出て暮らすようになり、2017年、体調を崩した母を手伝うために帰ってきて、かつてのにぎわいが消えていたことに驚いたそうだ。
固定概念に縛られずに新たな魅力を創造
そこで始めたのがSNSを活用したPR。当時は公式のアカウントを立ち上げている銭湯はほとんとなかったが、地道にフォロワーを増やし、若者が足を運んでくれるようになった。その一方で角屋さんは、2019年、ITエンジニアとして勤めていた企業を退社し、フリーランスとして続けながら『金春湯』の経営にも本腰を入れる二足のわらじに。
「まだやりようがあると思えたんです」
異業種を経験した角屋さんだからこそ「銭湯らしさ」に執着せず、違う角度から再興の糸口を見つけられたのだろう。ドリンクのケースにクラフトビールを加えると、これを目当てにマニアが来店。オリジナルグッズは幅広く揃え、カエルのTシャツ(作画は3代目の角屋さんの父)は「地域の祭りでこれを着た子供を必ず見かける」ほどの人気。3月にはスタッフが編集したZINE『湯かげん』を創刊し、すでにZINEフェスにも出店したという。
と同時に、「あくまで地域の銭湯でいたい」とエンタメ化しすぎないのも大きな魅力。なんというか、バランスがいい。浴場や休憩所には日常的に通う人々の生活感がほんのり漂い、なおかつ東京観光がてら訪れる一見客にも居心地がいい。この「ちょうどよさ」を感じられるところは、意外と少ない。
そして、2022年には会社を設立。五反田で飲食店を営んでいた弟の雄太さんも合流し、廃業予定だった大井町「末広湯」を『すえひろ湯』としてリニューアルした。
「無くなるのはもったいないと思ってお話をするなかで、引き継ぐ決意をしました」
新たにビアタップを設置し、生ビールも提供。受付の前にはスツールが並び、さながらビールスタンドのようだ。もちろん、瓶牛乳もあるし老若男女が寛げる。湯上がりに喉の渇きを癒やし、気分上々!
創業76年の地元に愛される銭湯『金春湯』
地域に根ざし、毎日のように通う人も。『金春湯』のシンプルな浴室は使い勝手がよく、38℃のぬる湯と43℃の熱湯(あつゆ)に交互に浸かるうち心身が和らぐ。無音の格納式ドライサウナはおのずと瞑想状態になれ、水風呂はずっと入っていられると好評。オリジナルタオルや着替えにぴったりのTシャツも販売しているので手ぶらで立ち寄れる。湯上がりに休憩所で飲むクラフトビールが至福。入浴料550円、サウナ600円。
大崎『金春湯』店舗詳細
大井町『すえひろ湯』店舗詳細
取材・文=信藤舞子 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2026年5月号より






