26年前、文学部生だった私が初めて訪れたオーセンティックバー
思い返すと、もう26年も経っていた。文学部の学生だった私と友人たち4人で、ゼミを終えたあと向かったのは、びんぼう学生には場違いな、銀座。
北関東から出てきたばかりの田舎芋にはまぶしいみゆき通りを進むと、ビルとビルの隙間の薄暗い路地に、果たして目当ての店の袖看板はあった。片眼鏡にシルクハット姿の怪盗が描かれている。モーリス・ルブラン「怪盗アルセーヌ・ルパン」フランス語版の本の扉絵を模したハイセンスなこのタッチ、スリットのような路地の陰影とあいまって、店の前で早くも圧倒されてしまったのが、『バー・ルパン』であった。
おそるおそる薄暗い階段を下りていくと、より暗い照明の店内に、まぶしい水玉のワンピースを着たベテランと思われるウェイトレスさんがおられ、われわれ4人をボックス席に迎え入れてくれた。ウイスキーはまだレッドしか飲んだことがない若造は、堂々と注文する連れの女子大生2人にならって、大学生の大定番、カシスオレンジ(いやカシスソーダだったかも)を頼んだ。
ドリンクを待つ間、亀が首をのばすようにして琥珀色の店内を見回す。あったあった。椅子にあぐらをかいた太宰治や坂口安吾、織田作之助など、新潮日本文学アルバムに載っていたあのモノクロ写真が飾られている。一連の写真はルパンで、写真家・林忠彦氏が撮ったものだということを知っていた。カシスをちびちび飲み、レモンをのせたオイルサーディンを4人で突きつつ過ごした時間。おそらく1時間に満たなかったと思うが、濃密なひとときだった。これが、私の初オーセンティックバー体験である。
「カフェー・タイガー」の女給だった『ルパン』の創業者
そして今日、もう緊張はしないほど厚くなったツラの皮をしたまま、ぶ厚いカウンターをなでつつ座る。振り返ると、26年前と全くかわらないボックス席もそこにあった。
「釘もささらないくらいです」
ほほえむバーテンダーの開(ひらき)幾夫さんは教えてくれた。寒冷地で育った広葉樹・ヤチダモの一枚板は、引き締まった硬さでそうそう傷さえつけられない。カウンターバースタイルでの営業をはじめた昭和10年(1935)から使われており、90年以上を経た今、飴色に、つやつやと光っている。さあ早速飲もう。開さんに手早くシェイクしていただいたのは、安吾も好んだというゴールデンフィズ。
グッと一口いくと、こっくりとした味わいとさわやかさが口に広がる。卵の黄身とレモン汁のためだ。飲みすすめつつマネージャーの高崎尚彦さんにも話を聞く。
「昭和3年に、私の祖母がルパンを開業しました。祖母は『カフェー・タイガー』の人気嬢だったようです」
これは驚いた。明治末に人気を博した「ライオン」というカフェーがあり、その向こうを張るように大正末に開店したのが「タイガー」だった。カフェーとは女性の給仕係、「女給」さんが接客しながら酒を飲む店である。
昭和10年に業態変更、カウンターバースタイルへ
「タイガー」は永井荷風なども出入りしていた店だが、菊池寛は常連だったようだ。そのあたりは福富太郎『昭和キャバレー秘史』に詳しい。戦後、一大キャバレーチェーンを作り上げ「キャバレー太郎」と呼ばれた福富は歓楽街の歴史に通じ、業界人の知り合いも多かったはずだが、この「タイガー」に勤めていた人には会ったことがないと残念そうに記していたのをすぐに思い出した。
高崎さんの祖母・雪子さんは1981年頃まで店に立っておられたので、福富と会っていれば、戦前の盛り場の様子が聞けてさぞ喜んだはずだ。
雪子さんは菊池寛、里見弴、泉鏡花、久米正雄など作家たちから支援を受け、昭和3年(1928)に「タイガー」から独立、カフェ―として『ルパン』をオープンさせた。前述通り、昭和10年(1935)に業態変更をし、カウンターバースタイルとなった。一世紀近い歴史を持つということは、もちろんあの戦争の時代を耐えて通過しているということである。
取材・文・撮影=フリート横田
※高崎尚彦さんの「崎」は旧字の「立つ崎(たつさき)」が正当。







