森可成
此度紹介致すのは森可成(よしなり)様。
大河でも初めから登場し、少し前の話で討死なされたことに控えめながら触れられておったわな。
森可成様は織田家随一の武将と言っても過言ではない。
儂、前田利家にとっては師であり、命の恩人とも言えるお方じゃ。
可成様は信長様が幼き頃から織田家を支えられた。
初めに紹介致すのは稲生(いのう)の戦いでの武功である。
この戦は信長様と弟・信勝様の争い。
この頃は信勝様を後継に推す家臣が多く、信長様は少ない手勢での戦を余儀なくされたのじゃ。
しかも、この時信勝様に与したのは、大河でも大人気な柴田勝家様と、信長様を幼少から支えておった第一家老、林秀貞様である。
織田軍きっての武人、勝家様と信長様が最も信頼を置いておった秀貞様。
この二人と敵対した上に、兵力で申せば信勝様の1700に対して信長様は700、半分にも満たぬ状況であった。
数で圧倒的に劣る上に相手には戦上手の勝家様。
信長様の手勢わずか50人ほどで敵の大軍に囲まれてしまうのじゃ。
じゃが、その50人のうちには森可成様がおった。
可成様と信長様は絶体絶命のこの窮地から圧倒的な槍働きで押し返し、死地を脱したのみならず、最終的にはこの戦を勝利で飾られたのじゃ!!
わずか50人で大軍に囲まれれば普通ならば全滅必至、これは可成様の獅子奮迅のご活躍が生んだ奇跡である。
そしてこの戦での勝利がなければ、もしや織田家の家督を継いだのは信勝様であったやもしれぬ。
織田家の家臣たちが信勝様に味方する中、信長様を支えた可成様は信長様の信頼厚く、織田家筆頭格の家臣となったのじゃ。
続いての武功は尾張統一の戦。
織田信友様との清洲城の戦いにて、なんと可成様は敵の大将・信友様を討ち取る手柄を挙げられたのじゃ!
これによって信長様は尾張を掌握、これは大河ドラマ『豊臣兄弟!』一話の前日譚であるな。
して、初めにも申したが儂も可成様には実に世話になってのう、稲生の戦いの少し後に起きた浮野の戦いにて儂は可成様に従いて、戦の定石を習ったのじゃ。
加えて、儂が信長様に侍る坊主を斬り不興を買った折に、可成様と勝家様による助命の口添えによって出仕停止で済んだのじゃ。
誠ならば打首であったところ、可成様はまさに命の恩人であった。
実は可成様の手柄、美濃攻略戦
本年の大河にて、豊臣秀長が最初に成した大手柄として美濃三人衆の調略が描かれた。
正しくは、竹中半兵衛を仲間にするついでのような描かれ方ではあったわな。
この斎藤家を支えておった美濃三人衆が味方となったことで滞っておった美濃攻めに一気に方がつき、勢いに乗じて信長様は上洛されることとなった。
秀長と秀吉によってなされた調略、これは、大河の脚色として実におもしろき筋書きであったが、実はこの手柄、誠は森可成様によるものであったのじゃ!!
戦働きでも家中随一の可成様であるが、斯様な外交にも秀でておったのである。
可成様の外交の腕を示す話がもう一つ。
これまた大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも描かれた金ヶ崎の戦いである。
この時、秀吉や明智光秀殿が殿(しんがり)として活躍した一方で、可成様は先遣隊として、信長様が無事撤退できるように働いておった。
金ヶ崎から京までの帰る折に朽木峠と申す峠がある、この地を治めておった朽木家は浅井家の影響下にあった。
じゃが朽木峠は京への近道。
浅井・朝倉に追いつかれぬため、なんとしてでもここを通りたかった信長様は可成様を交渉役として派遣、可成様の説得によって朽木家は織田家へ味方し領内の通行を許すだけにとどまらず、道案内を買って出て無事に織田家は撤退することが叶ったのじゃ。
金ヶ崎の退き口は、危険な撤退戦であったにもかかわらず兵の損害が非常に少ない。
この成功には織田軍の練度の高さはもちろんのことながら、可成様の外交役としての手腕が大いに関係したのじゃ!
最期にして最高の大活躍、宇佐山城の戦い
斯様にして八面六臂の大活躍を見せた可成様であるが、大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも描かれたように、宇佐山城の戦いにて討死なされた。
大河では詳細が省かれておって、比叡山によって突如襲われ討ち取られたように描かれておったわな。
じゃが、これでは可成様の最大の武勲が何一つ伝わっておらぬ。
最期のご活躍を知るためには、まず当時の織田家の様子について話して参ろう。
当時の織田家は浅井・朝倉が目下の敵であった。
じゃが、それだけにあらず、信長様の上洛を阻止しようと動いた六角家や、かつての天下人・三好家の重臣からなる三人衆が足並みを揃え織田家を攻撃。
多方面との戦を余儀なくされたのであった。
三好三人衆は浅井・朝倉との戦いにて北陸にかかり切りの織田家の隙をつき、姉川の戦いからまもなく大坂にあった織田家の城を攻め落としたのじゃ!!
これにかつて美濃を治めておった斎藤龍興殿や日ノ本最強の鉄砲部隊・雑賀衆、そしてこれまでは中立を保っておった大坂本願寺が加わりて、織田家は窮地に立たされる。
商いの中心であり京にも近い大坂を奪われては一大事、故に信長様は大軍を大坂に向かわせ、連合軍を食い止めたのじゃ。
これが野田・福島の戦い。大河では省かれたが大戦であった。
じゃが、そんな信長様を狙い兵を挙げたのが浅井・朝倉の連合軍である。
三万の兵を連れ、大坂にかかりきりの信長様を背後から襲い挟み撃ちにする算段であったのであろう。
この窮地に立ち上がったのが森可成様であった。
可成様は京や大坂につながる交通の要所、坂本へ出陣し街道を封鎖、浅井・朝倉の進軍を食い止めたのじゃ。
浅井・朝倉の軍、3万に対して可成様方は1000、30倍もの兵力を相手に互角どころか優位に立ち回り、連合軍を撃退してみせたのじゃ!
ところが、ここで比叡山の僧たちまでもが兵を挙げ浅井・朝倉方に加わったのである。
さらに膨れ上がった敵を相手に可成様はなおも戦を有利に進め、敵軍を押し戻すまさに神がかりの戦ぶりを見せ、圧倒的兵力差を前に五日間も敵を足止めしておられたのじゃが、衆寡敵せず、ついには力尽きこの地にて討ち取られたのである。
大河ではここだけが抜粋して描かれたために可成様の活躍ぶりが伝わらなかったわな。
そして、これで終わらぬのが可成様。
なんと可成様の家臣たちが宇佐山城に籠りて、大将を失ったにもかかわらず落城することはなく、浅井・朝倉軍の足止めを続けたのじゃ。
可成様捨て身の戦によって、浅井・朝倉の出兵を知った信長様は急いで坂本に兵を返し、宇佐山城に釘付けになる敵方を攻撃し大損害を与えたのじゃ。
浅井・朝倉が逃げていった先が比叡山、そして焼き討ちにつながっていくというわけじゃな。
可成様の足止めがなければ、織田家は大軍に挟み撃ちにされ、いよいよ窮地に陥っておったであろう。あるいは全滅もありうる局面であった。
主君を守るため、三十倍の兵力を相手に援軍の見込みもない中で敵を跳ね返し続け散った可成様は、日ノ本の歴史の中でも屈指の美しく激しい最期を飾った武士であろう。
最後に
此度の戦国がたりはいかがであったか。
織田家の重臣の中で、随一の武功を挙げながらも語られることのない可成様。
此度の大河では名は確と出ておったが故に語って参った次第である。
して、森家と申せば現世で随分と名が知られておる者がおるじゃろう。
それが森蘭丸こと森成利である。
成利は可成様の三男で、信長様の小姓として知名度と人気があるそうじゃな。
皆も知る通り成利と四男・坊丸、五男・力丸は皆、本能寺の変にて信長様に殉じておるし、長男の可隆殿は金ヶ崎城攻めにて討死、そして戦国一の狂戦士の異名で知られる次男・長可は父譲りの槍働きで数多の戦にて功をたて、信濃を拝領するも小牧長久手の戦いにて討死しておる。
可成様含め皆、戦場に生き戦場に散った武士の模範そのものの一族であるな。
さて、此度の戦国がたりはこの辺りといたそう。
これよりも歴史についておもしろき話を届けて参るでな、確と楽しみにしておるが良い。
また会おう、さらばじゃ!!
文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)







