『貼雑年譜』は日本探偵小説史の貴重な史料
江戸川乱歩が、池袋三丁目(当時)に引っ越してきたのは昭和9年(1934)7月のことだ。このとき39歳。のちに、1965年7月に70歳で亡くなるまで、この地で暮らした。
転居の決め手となったのは、邸宅に併設されていた土蔵だった。関東大震災後の大正13年(1924)に建てられた2階建ての土蔵を乱歩は書庫として改造する。1階には欧米の探偵小説、犯罪学や心理学、民俗学など、2階には近世の和本と、古今東西の文献を収集・配架。自著を刊行順に収納できる自作の箱(手書きで書名記載)が隙間なく収まる棚もあり、乱歩の気質と、その作品群の背景が詰まった空間は「幻影城」と呼ばれた。
乱歩が池袋で暮らし始めた時代は、日本が戦争へと突き進んでいく時代でもあった。昭和14年(1939)以降、乱歩の作品は発禁扱いとされ、新作の依頼も途絶える。そこで着手したのが『貼雑年譜(はりまぜねんぷ)』。雑誌や新聞の切りぬき、チラシなど、これまで集めてきた自分に関連する資料をスクラップブックに貼りつけ、自ら解説を書いた半生記である。乱歩の収集癖と整理魔の習性を遺憾なく発揮したこの労作は、乱歩の個人史にとどまらず、日本探偵小説史の貴重な史料となっている。
戦時中、乱歩は池袋三丁目北町会副会長をはじめ、町会活動の役職に選任されている。貯蓄部の総代になり、町会員に国債を購入させる役目を担った折には、公平な支出にしたいと考え、各世帯の住居の畳数と居住人数を調べて割当表を作成している。借家か持ち家かで分けるなど緻密な仕事ぶりがうかがえる。
なかには大政翼賛会からの任命もあった。自身の作品が書けなくなったこともあり、戦争に対して忌避感はあっただろうが、この時期に地域の人たちとの交流を始めたことが、社交的な性格に変わるきっかけになったという。戦後、雑誌『宝石』の編集長を務め、新人の発掘や探偵小説の普及に奔走するのだが、戦中期の鬱屈と社交が、乱歩の進む道に与えた影響は小さくないはずだ。
旧江戸川乱歩邸
乱歩の邸宅を2002年に立教大学が譲り受けて保存・公開してきたが、24年に改修、25年5月にリニューアルオープン。展示室1には『貼雑年譜』のほか愛用品などが陳列、展示室2には書斎を再現している。土蔵に入ることはできないが、扉の前から見学は可。
取材・文=屋敷直子 撮影=鈴木奈保子
『散歩の達人』2025年11月号より





