佐野史郎
1955年生まれ。6歳まで練馬区桜台で過ごし、父の実家である島根県松江市に移り住む。75年、劇団「シェイクスピアシアター」創設メンバーとしてデビュー。80年「状況劇場」入団。現在に至るまで、映画、ドラマに出演多数。写真家、ミュージシャンとしても活躍中。
「日本の探偵小説の源泉が、あの蔵の中に詰まっている」
——初めて乱歩邸にいらっしゃたのは、いつごろですか。
佐野 1993年だったと思います。当時はご子息の隆太郎さんが、ご家族とお住まいでした。TBSのドラマ『乱歩—妖しき女たち—』(94年放映)を撮影するにあたって、取材も兼ねてご挨拶に伺ったんです。執筆していた文机(ふづくえ)がある奥の和室も見せていただきましたが、使っていたままの空気が残っていましたね。現在のこの旧乱歩邸も、基本的には当時の印象と変わってないです。
——土蔵にも入りましたか。
佐野 入りました。乱歩ファンとしては伝説の蔵で、自分の少年時代を思い返すと、もう夢のようでした。興奮はしましたけどドラマを控えてのことだったから、乱歩に対して失礼のないように、襟を正してのぞみますという気持ちでした。西洋のミステリーや幻想怪奇文学の要素を、日本語で紹介する作業はたいへんなことだったと思うんです。蔵には、その原点ともいえる洋書の数々が揃っている。日本の探偵小説の源泉が、あの蔵の中に詰まっているんです。乱歩と交流があった探偵小説家たちとの情報交換の場でもあったし、今でも資料として稀覯本(きこうぼん)だらけだろうし、特筆すべき場所ですよね。
——乱歩は本好きだっただけではなく、その整理整頓術にも長(た)けていたことがうかがえます。
佐野 誰が見ても分かる整頓の仕方であるような気がします。『貼雑年譜(はりまぜねんぷ)』を見ても、今まで自分がやってきたことを整理してファイリングするという編集者的な資質があるし、それが作品にも生かされている。何よりも旧乱歩邸に来て、この椅子に座っていたのかと想像するだけでも、ファンとしてはたまりませんよね。
音読することで気づく登場人物の心情
——乱歩作品の魅力はどんなところにありますか。
佐野 乱歩ファンの方はみんな感じているだろうけど、ロジックが破綻していて突っ込みどころ満載の作品だらけなんですよ。そこが魅力でもある。大作家であればあるほど、そのほころびが魅力的で愛しいです。でも読後感は、なにか野太い錆(さ)びた鉄骨のようなものが通っていて、硬質なものが残るんです。
——佐野さんは乱歩作品の朗読もやられていますが、やってみて気づくことはありますか。
佐野 あります。『押絵と旅する男』は、ほころびがない、純文学としてもとてもクオリティが高い作品で、兄と一緒に旅するロマンチックでありながら恐ろしい逆転の物語です。人形だと思っていたものが人間だった、当たり前だと思っていたことが実は正反対のものだったというのは、乱歩文学のなかで一貫したものの見方。僕は、物事を鵜呑(うの)みにせず、なぜそうなっているのか考えることを教えられました。黙読では、大どんでん返しの快感があるんですが、音読していると、おやっ?と思うことがあって。最近気づいたのは、弟は兄を殺したなと。殺したことをファンタジーとして語り、読者の視線を違う方向に向けようとしている、という思いで、このごろは読んでいます。
——声を出して読むことで、分かってきた?
佐野 そうです。でも、朗読で殺したことを伝えようとすると作為が出てきてしまうんです。朗読は素直にそのまま読むのがいちばんだとは思うんだけど、こちらも生身の人間だから、登場人物に感情移入するとどうしても引っ張られてしまう。観客に気取られないように、なるべく素直に読もうとはするけど、思いは消すことができないから、どこかで漏れてしまいます。
——弟に感情移入した結果なのでしょうか。
佐野 そうですね。弟が語る話だから、弟の身体の状態を探るわけです。するとだんだん分かってくる。僕が俳優という仕事をしているから、という要素も大きいと思います。観客にそのことを分からせようとしちゃいけないと思う一方、分かってほしい気持ちもある。でも、乱歩がどう考えていたかは分からないです。
幼少期を過ごした桜台、小泉八雲もゆかりの松江のこと
——佐野さんは、6歳まで練馬区桜台にお住まいでした。そのころの記憶はありますか。
佐野 昭和30年代、桜台の駅前のロータリーでは縁日があったり、紙芝居をやったりしていました。西武線で池袋に出て、西武デパート(西武百貨店)で父親にHOゲージ(鉄道模型)を買ってもらったのを覚えてます。色が塗られていない真鍮(しんちゅう)製で、クリスマスプレゼントだと言われましたが、父親自身が欲しかったんですよね。僕も楽しみましたけど。
——当時の池袋は、どんな街でしたか。
佐野 池袋駅は、国電、西武線、東武線、地下鉄は当時は丸ノ内線だけで、いろいろな路線が乗り入れるハブの駅ですよね。とにかく雑多な街というイメージです。当時、東口には西武デパートと東京丸物(まるぶつ/現・池袋パルコ)があって、西武はモダンな気配がありました。
——乱歩が描く東京の風景が好き、とインタビューで話されていました。どんなところでしょうか。
佐野 自分が過ごした幼少期とつながるんです。銀座の街並み、チンチン電車の木板の床、トロリーバスの架線から散る火花、高速道路がない風景。乱歩の小説には、自分の原風景が出てくるんですね。東京の風景がほんとうに変わったのは、戦争ではなく、高度経済成長期だったのではないかと思うんです。
——6歳からは島根県松江市に移り、高校まで過ごされています。そのつながりで、小泉八雲作品の朗読も多くやられていますね。
佐野 18年やっています。僕は幼いころから幻想怪奇な世界観が好きだったこともあって、八雲の怪談話に興味がありました。八雲は来日して、松江で英語教師の職に就いていたんです。
——2025年9月末から始まったNHKの朝の連続テレビ小説『ばけばけ』では、八雲を招聘(しょうへい)する島根県知事の役です。実在のモデルがいるのでしょうか。
佐野 もともとは滋賀県令(当時の県知事)だった籠手田安定(こてだやすさだ)という人がモデルで、武道にも秀でた人でした。島根県知事になってからは、県民の英語の力を高めるために力を尽くしたようです。八雲を松江によんだ人ですから、気が引き締まる役ですね。
取材・文=屋敷直子 撮影=鈴木奈保子
『散歩の達人』2025年11月号より
ヘアメイク=中山知美スタイリスト=中島エリカ
コーデュロイパンツ/Cookman 8690円(問い合わせ=バディーズ☎03-5721-9951)
※雑司ヶ谷鬼子母神堂の「鬼」の文字は一画目の点のないものが正当です。





