旧天塩弥生駅は更地から木造駅舎が建った
JR北海道深名(しんめい)線は、1995年の廃止から30年経ちました。前回は深名線の30年後の廃線跡を前後編で駆け足に巡りました。今回は駅跡を紹介します。
深名線は、乗降場から昇格された駅と交換駅がありました。交換駅といっても片方の線路が剥がされた無人駅ばかりでしたが、上多度志(かみたどし)、多度志(たどし)、鷹泊(たかどまり)、沼牛(ぬまうし)、有人駅の幌加内(ほろかない)、政和(せいわ)、添牛内(そえうしない)、北母子里(きたもしり)、天塩弥生(てしおやよい)と、木造駅舎が現役でした(朱鞠内〈しゅまりない〉駅は平屋モルタル建て)。
そして廃止後に更地となり、新たに木造駅舎が建設されたのが天塩弥生駅です。しかも宿として営業しているのです。その名も「旅人宿天塩弥生駅」。廃駅の地で滞在できる! ワクワクしますね。
ときに、私は既に旅人宿天塩弥生駅へ訪れたことがあります。それは2015年のこと。廃線跡をたどって天塩弥生駅跡を訪れたとき、偶然にも建設中の駅舎を見て驚きました。「廃止後20年なのにモニュメントを作るのかな?」と思っていたところ、ちょうど建設立ち合い中のオーナー、富岡達彦さんからお話を聞くことができ、駅舎を模したドミトリー宿を建設中だと知りました。富岡さんは元鉄道マンで、鉄道要素のある旅人宿を計画していたのです。
駅跡に建つ木造駅舎の宿って素敵だな、いつか泊りに来たいなと心に決めましたが、慌ただしく月日が経って10年後、つまり廃止後30年経った9月に、やっとのことで天塩弥生駅へチェックインできたのです。
宿と駅、どう称すればいいか悩みますが、あえて“駅”と“駅舎”としましょう。駅舎の位置は道道798号から一歩入った位置にあり、現役時代とほぼ同じです。また現役時代の駅舎は半分解体されて待合室側のみの小さな姿でしたが、現在の駅舎の大きさは、一般的な木造駅舎と同等で事務室側もあり、この事務室側が寝室と風呂場などになっています。
「元の天塩弥生駅の駅舎に合わせようと。駅の大きさはだいたいこんな感じです」
と富岡さん。旧天塩弥生駅は深名線開業時に初茶志内(はっちゃしない)駅と称し、部分開通時は名寄側の終着駅でした。駅より西は深い森と峠が控え、全線開業後は名寄~当駅間の区間列車が運転され、貨物ホームも配してそこそこの規模がありました。
駅舎の内外観は完全なる天塩弥生駅の再現ではないのですが、規模とイメージはだいたい合っているようです。私は現役末期の小さくなった姿しか知らないので、なるほどなと外観をぐるぐる回りながらうなずいていました。
それにしても、まるで旧駅舎を改築したような雰囲気が漂います。以前は新築のにおいがしていましたが、10年の歳月の経過によって風合いが出て貫禄が増し、まるで模型のウェザリングのように大地へと馴染(なじ)んでいます。事前情報を知らなければ廃駅舎を改築したと思ってしまうでしょう。
随所にちょっと懐かしい鉄道の設備が
玄関、もとい駅舎入り口は寒冷地仕様の二重構造です。ドアは建築から10年以上の年季が感じられますが、旧北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線の大誉地(およち)駅舎から移設されたものです。大誉地駅はふるさと銀河線の廃止後に足寄町管轄となっていましたが、解体されると知った富岡さんが足寄町と掛け合い、現地へ訪れて町と解体業者の担当者立ち合いのもと譲渡する部材をチェックして入手しました。
大誉地駅といえば、私は梁に「およち駅」と書かれたガラス板を覚えています。それも移設されて健在でした。大誉地を知っている人ならば懐かしいと感じるはず。足寄町から来訪されたご老人たちが「大誉地がここにある!」と驚かれたそうです。
駅舎の周囲には、ハエタタキと呼称する古い電信柱が立ち並びます。これもふるさと銀河線沿線の置戸町境野で入手したもので、銀河線の廃止後、回収業者が鉄道施設部材を入札して購入したなかに電信柱があり、富岡さんが名寄から足寄まで何度も足しげく通い、その熱意に納得された業者の親方が、やっとのことで首を縦にうなずいてくれたのです。ハエタタキの輸送も親方が手弁当で手伝い、旅人宿天塩弥生駅が開業した際も駆けつけてくれ、「もうね、うれしかったですよ」。富岡さんは目頭が熱くなる思いでした。
周囲に立つハエタタキは電信線がないだけで、駅の雰囲気をじゅうぶんに醸し出してくれます。私もハエタタキ好きなので、この姿を見るだけでも癒やされました。人は好きなものを見ると、心が穏やかになっていくものなのです。
唯一残る深名線の遺構とここに駅舎ができた理由
駅舎裏手には踏切警報機、腕木式信号機が設置され、駅の雰囲気を醸し出してくれます。ただなんとなく設置したのではなく、線路のあった場所に沿って配しており、廃線跡を大事に活用されていてうれしい気持ちとなってきます。
「ここが深名線の跡だという唯一のものがこれです」
富岡さんが教えてくれたのは、西側の木々の片隅にたたずむ、警戒色の残る電信柱の跡。大人の胸ほどの高さで切断された柱は私も記憶しており、深名線が現役の頃からその場にありました。
おお!こんなところにいたのか!と目を丸くしましたが、柱はずっと動かず、木々に隠れながら存在していたのです。
そうそう、この柱の脇に線路があって。柱を見つめていると、一気に30年前の光景が思い出されていきます。
「廃モノが好きな方々も泊まりに来るんですよ」
私は廃もの好きの願望として、“廃”に寝泊まりしたい、住みたい気持ちがあります。実際の生活となればさまざまな困難が生まれ、見えてはならないものも感じて難しいのですが、廃駅を模した駅舎に寝泊まりできるのは、この上なくうれしいです。“廃”を愛する者が集うのは、なんとなく分かりますね。
もちろん“廃”の人々だけではなく、一番多いのは旅人です。北海道ワイド周遊券で旅をした世代がリピーターに多く、ユースホステルへお世話になったり駅で寝たりと、私もその一人でした。列車とバスで乗り継ぐ旅人、バイク旅、自転車旅、自動車旅、なかには徒歩旅と、さまざまなスタイルで動く旅人が集います。
では、そもそもここに駅を建てたのは?と、前々から疑問だったことを伺いました。
「自分たちが子供の頃に見た風景、昭和30-40年代の風景。そういった形のものを模しながら宿にしようと決めたのです」
富岡さんは下川町在住の頃に旅人宿をやろうと、当初は旧名寄本線上名寄駅跡を候補にしましたが、町が住宅を建設するために断念。旧天塩弥生駅跡地が名寄市の管理で手つかずに残されていたのを知り、市に掛け合い、駅跡の土地約3700坪が購入できました。ご自身も元鉄道マンの鉄道ファンであり、子供の頃に見た昭和3、40年代の風景をコンセプトにした駅の旅人宿を計画したのです。
気になるのは木造駅舎です。駅舎は専門家が建てたのかといえば「下川町にいたときの移住仲間の大工」が手掛け、鉄道関連は専門外でした。当然「駅なんて分かんねぇよ」と断られますが、2人で道内に残存する木造駅舎を巡りながら大工目線で観察し、建築の参考にしました。その際に大誉地駅のパーツなどを組み合わせ、「本当は新築だが、まるで旧駅舎を改築したような雰囲気が漂う」駅舎の宿が誕生したのです。
駅舎内は待合室と窓口にあたるエリアが、食堂兼団らんスペースと売店になっています。宿代を支払うと宿帳と領収書代わりにいただくのが、手書きの補充券風! 部屋名は宗谷本線の優等列車名で、硬券特急券風の宿泊券が貰えます。
JRになって旅を始めた私の世代にとっては、このような切符を手にすることもほぼないですが、ちょっと上の世代の方々はこのような切符を握りしめて旅をしていたのですね。この一枚をもとに宿で出会った名も知らぬ旅の先輩方と話が弾み、駅跡の夜は更けていくのでした。
深名線の跡はほとんど埋もれていますが、かつて地域の拠点となった駅跡には、全国から旅人たちがふらふらっと訪れてきます。天塩弥生駅はこれから冬支度。駅再開は冬になります。また深名線の足跡をたどりながらふらっと訪れて、ずっとハエタタキを見ながら癒やされに行きましょうか。
〈おまけ〉
宿泊日は偶然にも皆既月食の日でした。月食の旅人宿天塩弥生駅の姿をお見せします。
朧月夜から……、
雲が晴れて満月となり、一旦就寝。
深夜に目覚めて外へ出ると月あかりは何処へ……。満天の星空に啞然。
西の空には皆既月食の赤い月が……。この現象を知らなければ不吉な予感と思ってしまう。
駅舎入り口(玄関)と月食。
腕木式信号機と月食。
取材・文・撮影=吉永陽一






