新たなキャリアに選んだ本格薪窯ピッツァ作り
お店の場所が決まるまでには、半年ほどかかったという。今の場所を最初に見つけたのは、現オーナーの服部公子(はっとりきみこ)さん。偶然自転車で前を通りかかって、不動産屋さんの貼り紙を見てピンときたのだとか。
『i-rottah』は、2021年に亡くなった夫の斎(ひとし)さんと2人で始めたお店だ。斎さんは前職で経理を担っていたが、40代半ばに新しい職を求めることになり、チャレンジしたいと考えたのがピッツァ作りだった。きっかけとなったのは、当時本格ナポリピッツァを出す先駆け的な店として知られた中目黒「SAVOY(サヴォイ)」。服部夫妻は「SAVOY」の常連で、オーナーに相談すると「飲食店の経験がなくてもできますよって言われたんです」と公子さん。
ひと通りのレシピを教えてもらった後、2人はつてを頼って長野県の野辺山高原で山籠り。仲間と手作りしたピッツァ釜の隙間から漏れる煙を浴びながら、斎さんは連日ピッツァを焼く特訓を行った。幼い子供たちを両親に預けて行ったトレーニングは3カ月間続き、「早く帰りたいと思っていました」と、夫の新しい挑戦に公子さん自身は戸惑いもあったようだ。
いつの間にか、お店はみんなの場所になっていた
お店がオープンすると公子さんはマダムとしてホールを担当。それまでは専業主婦で、本当は内向的で社交性はないと自己分析する公子さんだが、「ここで仕事をしていると、それが嘘のようにいろんな方とお話ができて楽しいんです。自分の成長も感じました」と振り返る。
オーナーシェフの斎さんが情熱を注ぐピッツァのおいしさは評判になり、『i-rottah』はグルメメディアで取り上げられることもしばしば。2号店を出さないかという誘いもあった。しかし、服部夫妻はかねてより身の丈に合った店を理想とし、近隣で働く人を中心とした常連客と今のお店を大切にして切り盛りしてきた。
そんな姿勢が訪れる人にも伝わったのか「新しいスタッフが入ると、みんな『ここのお客さん、いい人ばかりですね』って言われます。それが私の自慢です」と公子さんは誇らしげだ。
しかし、これまでお店には2度閉店の危機があった。1度目は2019年に夫でオーナーシェフだった斎さんが厨房で倒れたとき。2度目は2021年に斎さんが亡くなったとき。
店を受け継ぐことを迷っていた公子さんに、お店を続けるように進言したのは長い付き合いの常連客たち。最初は「シェフが戻る場所があったほうがいい」、2度目は「この場所がなくなるなんて寂しい」と声をかけられた。公子さんは、自分がオーナーとなってお店を続ける決断をして今に至る。
先代の手法を受け継ぎながら、新しい作り手の味へ
現在、『i-rottah』でピッツァを焼いているのは、2019年に斎さんが倒れたときに一緒に厨房で働いていて、救急車を呼ぶなどした宮岡遼(みやおかりょう)さんだ。一度、別のお店で改めて修業したあと、『i-rottah』に戻ってシェフとして薪窯ピッツァを焼いている。
『i-rottah』のピッツァ生地は、オープン当初からミキサーなどの機械は使っておらず、手間をかけて手練りしている。
手練りだと生地に必要な弾力の元になるグルテンが形成されにくく、厨房内では生地を寝かせておく時間と場所が限られることなど、諸条件を考慮した結果、小麦粉は3種類ほどブレンドしてもっちりした焼き上がりになるよう生地を作っている。
寝かせた生地は調理直前に台の上に取り出し、手だけを使って丁寧に伸ばす。自慢のマルゲリータはイタリアのトマト缶に塩だけを加えたソースを敷き、D.O.P.とよばれるイタリアの格付けに適ったモッツァレラチーズと、フレッシュバジルをのせる。そしてパチパチと薪が燃える400℃の釜の中へ。
宮岡さんのピッツァ作りは、概ね斎さんの作り方を継承しているが、生地が手練りであることもあって全く同じにはならない。
「ピッツァは作り手によって変わるものだそうです。はじめは困惑された方もいましたが、それでも『i-rottah』でピッツァを食べたいんだと言って、お店に来てくださる常連さんも多いです」と公子さん。
香ばしくアツアツで提供されるピッツァは、生地はもっちり。ランチではサラダ付きで1500円から。予約が必要なランチのコースもあってピッツァかパスタ、前菜盛り合わせとドリンク、ジェラートがついて2000円とお得だ。
現在は毎日お店に出ているわけではない公子さん。「お店は、引き継いでくれる次の世代の方たちがいる限り成長していけると、最近思うようになりました」と話す。
社交的ではないと言いながら、マダムとして訪れる人と丁寧に向き合ってきた公子さんが現場を見守りながら続く『i-rottah』。どんな進化がみられるのか、時折訪れてみたい。
/営業時間:11:30~14:30・18:00~22:00/定休日:日・ランチのみ月/アクセス:JR・私鉄・地下鉄目黒駅から徒歩4分
取材・文・撮影=野崎さおり





