太宰治がよく立ち寄った、贔屓(ひいき)店
中央線の車内で、久しぶりに新潮文庫の『グッド・バイ』を開いた。
この文庫本には、太宰が1945年8月15日の終戦から、1948年6月13日の入水自殺までの約3年間に書いた短編16編が収められている。『人間失格』『走れメロス』『斜陽』などに比べればマイナーかもしれないが、読み込むほどに、生きることの滑稽さがじわじわ沁(し)みてくる、そんな短編集だ。1947年に発表された短編「メリイクリスマス」に、「私たちは、うなぎ屋の屋台の、のれんをくぐった」という描写が登場する。ここに出てくる鰻屋のモデルが、三鷹にあった『若松屋』。作中で主人公が注文しているのは、小串3皿にコップ酒3杯。
現在の『若松屋』について、国分寺市商工会のホームページには「戦後昭和22〜23年、初代が三鷹駅前(現在マクドナルド隣)でうなぎ屋の頃、太宰治が仕事のあとや編集者との連絡場所としてよく立ち寄った、贔屓店でした」という記述がある。『若松屋』は太宰の死後、三鷹から現在の国分寺の地に移転。初代は太宰と親交があり、太宰が行方不明になったときには捜索活動に協力し、一周忌の裏方も仕切ったとの逸話も残る。
「駅と太宰さんのアパートの間に店があったから、関所みたいになっちゃってたんでしょうね。毎日必ず顔を出していたっていうから」
女将の小川優美子さんが教えてくれた。
「川岸にウナギ屋がございまして、そこの主人公にたづねると、私の居所かならず判明いたします」「私は毎日、午後三時まで仕事して、三時以降は、ウナギ屋でお酒を飲み、へとへとに疲れてゐます」と、太宰が残した書簡に度々登場する鰻屋も、『若松屋』に違いない。
太宰は何を好んでいたのでしょうか。肝をつまみにお酒をだらだら飲んでいた、というような話を聞いたことがあります。
「たぶん、初代がまかないみたいなものを出していたんじゃないかな。さすがに毎日鰻ってわけにもいかないでしょう」
私は作家仲間や編集者を待つわけでなし、なんだかお店も混んできましたので、「大串重」でバシっとキメたいと思います。
カウンターに座っていると、3代目がうちわで火を散らすパタパタパタというリズミカルな音色が心地よい。初代が残したたれがついた鰻が炭火で焼かれる香ばしいにおいが鼻先をかすめる。
「昔でいうペナントじゃないけど、ファンの方が来たら記念にあげているの」
両手で受け取ったポストカードには、やや口角を上げた太宰が、右手の指にタバコのようなものを挟み、左手を歯を出して微笑(ほほえ)む男性の肩に添えている。「太宰と若松屋の先代・小川隆司(故人) 昭和22年4月撮影」の文字。太宰さん、笑っている。
たれは初代から直伝の大宰好みの味『若松屋』
短編「眉山」(1948年)に出てくる「三鷹のはないが、カウンター上には著名人のサインが並ぶ。僕の家のすぐ近くに、やはり若松屋というさかなやがあって、そこのおやじが昔から僕と飲み友達であり」の「若松屋」のモデルでもある。日本全国のみならず、海外からも太宰ファン(女将の印象では女性が多い。高校生くらいの若い方もしばしば)が訪れるそうだ。
取材・文・撮影=桜井桃子
『散歩の達人』2025年9月号より
参考文献=『グッド・バイ』太宰治著/新潮文庫 『太宰治全集12』太宰治著/筑摩書房





