1982年創業、クラシックが静かに流れる上品でモダンな喫茶店

吉祥寺駅公園口から徒歩3分。井の頭通りを渡り、井の頭公園へ向かって七井橋通りに入ると、あま〜い香りで誘ってくるクレープ店やテラス席があるカフェ、粋な古着屋、カラフルなアジアン雑貨店などが連なり、公園に着くまで誘惑されまくり!

ふとレンガ造りの3階建てのビルに目をやると、雰囲気の良さそうな喫茶店を見つけた。

看板の案内通り、階段を上って2階にある店舗へ向かう。
看板の案内通り、階段を上って2階にある店舗へ向かう。

『武蔵野珈琲店』は1982年にオープン。新陳代謝の激しい吉祥寺で40年以上営業を続ける地元の重鎮であり、また都内屈指の名喫茶でもある。いつも通りにネルドリップでコーヒーを淹れるのは、マスターの上山雅敏(かみやままさとし)さんだ。

「おいしい珈琲をどうぞ」のフォントからして、ひと味違うコーヒーを飲ませてくれそう。
「おいしい珈琲をどうぞ」のフォントからして、ひと味違うコーヒーを飲ませてくれそう。

マスターは高校を卒業したあと、イタリア料理店などさまざまな飲食店でコックとして調理の経験を積んでいたが、六本木にある名店『カファブンナ』で開かれたパーティーのケータリングを担当するようになってから喫茶の道へ。神保町『トロワバグ』の初代店長をも務めていた、まさに生ける伝説だ。

木の梁(はり)をむき出しにしたり、漆喰(しっくい)の白壁などフランスの田舎の家をイメージした内装。
木の梁(はり)をむき出しにしたり、漆喰(しっくい)の白壁などフランスの田舎の家をイメージした内装。

『武蔵野珈琲店』をオープンさせたのはマスターが27歳のとき。内装は神保町『トロワバグ』、原宿『カフェ アンセーニュダングル』、外苑前『カフェ香咲(かさ)』など同じ時代に誕生し、それらを手がけた松樹新平氏のデザインを参考にしている。

「1970~1980年頃、松樹さんが設計したカフェがブームになっていたの。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『家族肖像』とかに出てくるような、ヨーロッパにあるカフェの雰囲気で、BGMには聖歌やクラシックをかけているような感じでね」。なるほど、それでこういった上品で落ち着いた雰囲気はなんですね。

カウンターの奥にはマイセンなどのカップがずらり。季節の花を生けるのもマスターの楽しみのひとつ。
カウンターの奥にはマイセンなどのカップがずらり。季節の花を生けるのもマスターの楽しみのひとつ。

マスターは長年この店を経営しているが「こんなに楽しい仕事はない」とにっこり。

「店が満席になっているとき、少しの間スタッフにオーダーを任せ柱に寄りかかって店内を見回すんです。あっちの席ではカップルがいい雰囲気になっていたり、そっちではひとりで本を読んでいたり、会話をしている人たちもいる。この店でめいめい楽しんでいる、そういう景色を見るといいなあ、と思いますね」

そういうマスターの人柄に、ほわっと胸が温かくなった。マスターと話したいならカウンターへ、音楽が聴きたいならスピーカーの近くのテーブル席。静かに本が読みたいなら角の席というように、ゆとりがあるときは好きな席を選んでみよう。

小説に店とマスターが登場。『火花』と又吉さんとの思い出

どんな質問にも笑顔で答えてくれるマスターだが、店の歴史を訪ねていた時に「なぜか、経営がピンチになると誰かに助けられるんだよなぁ。最近だと、小説『火花』を書いた又吉(直樹)さんだよね」と、真剣な表情になった。

ヨーロッパに旅行に行くと、現地のカフェをハシゴしてしまうというマスター。
ヨーロッパに旅行に行くと、現地のカフェをハシゴしてしまうというマスター。

マスターが又吉さんを知ったのはテレビの撮影依頼を受けたときだった。その頃、又吉さんはお笑いコンビ・ピースのメンバーとして活動しながら、純文学の作品で『文學界』など歴史ある文芸誌に作品が掲載され注目を集めていた。

「芸能人とかに疎いから当時は又吉さんのことを全然知らなかったの。きっと前からうちに来てくれていたんだろうけど、テレビ番組の撮影で初めて認識してね。着物を着た又吉さんがウチでカフェ・オ・レを飲んでいきました。そのあと小説『火花』が芥川賞を獲ったでしょ。作中でこの店が登場するから、映画とかドラマになるとこの店で撮影が行われました。そのたびにもうお客さんがドアの外で行列を作ってね。大変なことになりました」

窓際の席が又吉さんのお気に入りだそう。
窓際の席が又吉さんのお気に入りだそう。

『火花』の作中に『武蔵野珈琲店』や“マスター”も登場し、店の雰囲気やBGMまで描かれている。さらに一部はこの店で執筆されたことでも知られ、聖地巡礼とばかりにファンが押し寄せたわけだが、ケーキなど手作りのものが多いので朝から晩まで厨房は大わらわだったそうだ。特に作中で主人公の先輩が飲んだブルーマウンテンNo. 1とガトー・フロマージュはこれまでの何倍ものオーダーを受けた。

ブルーマウンテンNO.1 1400円は『火花』の作中に登場した。
ブルーマウンテンNO.1 1400円は『火花』の作中に登場した。

「ふだんの又吉さんはカフェ・オ・レ・グラッセを注文されています。今もふらりと店に来てくださいますね。店が混み合ってない時を見計らって窓際の奥の席に座り、本を読んでいることが多いです」

『火花』が発表されて10年以上経っても、訪れる又吉さんのファンが後を絶たないという。

「いい作品だったから、一過性のブームでなく根強いファンがいるんでしょうね。あのような作品に登場させていただいて光栄なことです」

ネルドリップコーヒーと手作りケーキ。YouTubeも始めました!

では、コーヒーをいただいてみましょうか。コーヒー豆は創業以来、神戸の「萩原珈琲」から炭火焼きの豆を仕入れ、マスターがオリジナルでブレンドしている。メニューを眺めていたら「ウチは“珈琲店”だからコーヒーが注目されがちだけど、紅茶もうまいんですよ。店で茶葉をブレンドしているんです」。うむむ、それは盲点だった。だけど今はコーヒーが飲みたい気分。定番のブレンドコーヒーとガトー・フロマージュにします!

さっそくマスターが準備に取り掛かる。今まで吉祥寺の飲食店や地元の話、近年の日本経済、カフェ文化など、いろいろなテーマで話を聞かせてくれていたのだけど、コーヒーを前にすると真剣な表情に。筆者もつられて無駄のない所作に目が釘付けになる。

ネルドリップで丁寧に淹れられるコーヒー。5杯分を1度にドリップする。
ネルドリップで丁寧に淹れられるコーヒー。5杯分を1度にドリップする。
湯気とともに、コーヒーの甘く、芳しい香りが辺りに漂いシアワセな気分に。
湯気とともに、コーヒーの甘く、芳しい香りが辺りに漂いシアワセな気分に。
ブレンドコーヒー680円とガトー・フロマージュ620円。
ブレンドコーヒー680円とガトー・フロマージュ620円。

熱いうちにコーヒーをひと口いただきまーす! 苦味とコクが口いっぱいに広がり、その余韻が穏やかに続く。

そのときによって豆が変わることもあるが、この日はサントスニブラ、ジャワ・ロブスタ、マンデリンなどをブレンドしたコーヒーだ。
そのときによって豆が変わることもあるが、この日はサントスニブラ、ジャワ・ロブスタ、マンデリンなどをブレンドしたコーヒーだ。

次は『火花』にも登場したガトー・フロマージュ。2種のチーズを合わせて使い、つなぎに小麦粉を入れて湯煎焼きにしている。シンプルながらもっちり&しっとりとした濃厚なチーズケーキだ。

濃厚なチーズの味わいがまったりと舌に絡みつく、自家製のガトー・フロマージュ。
濃厚なチーズの味わいがまったりと舌に絡みつく、自家製のガトー・フロマージュ。

コーヒーの苦味がこっくりとしたチーズによく合う。マスターの話を聞きながら少しずついただいた。店内に流れるクラシックに耳を傾けながらひとりでコーヒーを飲むのもいいけれど、話題豊富なマスターとのひとときは何ものにも代えがたいものだ。

忙しくて店に行けない時は、マスターが市販のさまざまな商品で極上のコーヒーを淹れる動画がYouTubeで公開されているので、それを見ながらコーヒーを飲むのもいいかもね。動画は店で撮影されているので、まるでマスターとカウンター越しに話しているような気分になれるぞ。

住所:東京都武蔵野市吉祥寺南町1-16-11 荻上ビル2F/営業時間:11:00〜20:45LO/定休日:なし/アクセス:JR中央線・京王電鉄井の頭線吉祥寺駅から徒歩3分

取材・文・撮影=パンチ広沢