いよいよトンネル遊歩道の中へ

JR中央本線大日影トンネルは明治30年(1897)に起工し明治36年(1903)に竣工しました。トンネル内部はレンガ積みで、坑門(ポータル)は東京側が石積み、甲府側がレンガ積みと異なっています。明治30年代は日本のトンネル技術が発展を迎えつつある時代で、同時に笹子トンネル(4656m)も掘削したほどでした。笹子トンネルに比べれば大日影トンネルは短いですが、それでも長さは1367mもあって、深い谷間に建設されたため、工期は5年にも及びました。

いよいよトンネルへ。中心部はレールが敷かれたまま。バラストと枕木もあって足場は良くない。壁面には保線作業員用の注意書きが残る。
いよいよトンネルへ。中心部はレールが敷かれたまま。バラストと枕木もあって足場は良くない。壁面には保線作業員用の注意書きが残る。
遊歩道として整備され監視カメラも配備されている。放送装置や何かあったとき用の有線電話も整備された。
遊歩道として整備され監視カメラも配備されている。放送装置や何かあったとき用の有線電話も整備された。

訪れたのは秋も深まる晴天日。少々暖かい日で、トンネル内は寒いかなと思いましたが、身を引き締めるほどの寒さではありません。入り口は門扉が増設されている以外ほぼ現役時代のままで、坑門上部の扁額には「大日影トンネル遊歩道」と掲げられています。

平日のためか、トンネルへ誘われる人々はほとんどおらず、老夫婦が1組いたくらいでした。所要時間は往復1時間なので手頃です。陽気の良い休日ならばもう少しにぎわっていると思われます。

トンネル坑門の法面(のりめん)にはレンガで造られた排水溝が残っていた。これもトンネル建設時のもの。
トンネル坑門の法面(のりめん)にはレンガで造られた排水溝が残っていた。これもトンネル建設時のもの。
トンネルへ入ったので振り向いてみる。トンネルの周囲はちょっとした公園として整備されている。
トンネルへ入ったので振り向いてみる。トンネルの周囲はちょっとした公園として整備されている。

内部は線路がそのまま残っており、中心部を歩くのはバラストと枕木に気をつけねばなりません。線路の両サイドは平坦になっているので、そこを歩くのが無難でしょう。

トンネルに入るや、天井が細かい網で覆われ、それがレンガの色合いと二色刷りになったような造形で、はるか先の出口まで延びています。漏水対策の網だと知らなければ、何かの意匠か設備の一つか、悩んでしまうところです。線路中心部に立ってみると、もうトンネル状のグラフィックデザインに見えてしまいました。

線路に水が湧き出て保線の注意看板などの遺構が点在する

トンネル内部と言っても照明はしっかりと灯され、懐中電灯は必要ありません。暖色系の照明がレンガと相性よく、薄暗く怖い空間ではなく、暖かみのある空間になっていました。

ちょろちょろちょろ……

足元ほうから流水音が聞こえた気がしました。屈んでみると、線路の中心部がところどころ水たまりとなって水が流れています。線路はバラストと枕木があるだけで、水路はありません。どこからか湧いているのでしょうか。

レールの中心部から水が湧き出ていた。水面が鏡面にならないということはわずかながら流れている。
レールの中心部から水が湧き出ていた。水面が鏡面にならないということはわずかながら流れている。

気になりつつも先へと進み、レンガの壁面を眺めていると、要所で保線員向けの注意書き、100mおきに設置された距離標などが残っており、茶褐色のレンガが部分的に白くなっています。

「石灰分の再結晶 白い折出物はモルタルの石灰分が再結晶したもの」

ちゃんと説明板があって、散策者の疑問に答えてくれます。モルタルはレンガを積むときに使用しました。内部は完璧なレンガ巻きのように見えて、部分的に花崗岩で補強されています。弱い断層を通過するために花崗岩で補強したとのことです。

歩を進めるたびに壁面には距離標がカウントダウンのように知らせてくれる。
歩を進めるたびに壁面には距離標がカウントダウンのように知らせてくれる。
保線作業の時に記したペンキ文字と小さな距離標が残っていた。
保線作業の時に記したペンキ文字と小さな距離標が残っていた。
水が湧き出ていた箇所の壁面には保線作業で印をされた跡が残っている。モルタルが再結晶してレンガが白くなっている。
水が湧き出ていた箇所の壁面には保線作業で印をされた跡が残っている。モルタルが再結晶してレンガが白くなっている。
先に進むと壁面が花崗岩で補強されていた。この辺りの断層が弱いということ。
先に進むと壁面が花崗岩で補強されていた。この辺りの断層が弱いということ。

また壁面は等間隔で待避所の窪みがあります。作業中や移動中に列車が来るとき、この窪みで待避して列車をやり過ごすのです。

大日影トンネルでは一時避難用の小サイズが29カ所、保線連絡電話機なども備えた中サイズが5カ所あります。さらに大人が10人は入れそうな大サイズの待避所が2カ所あって、これは反対の面に備わっています。カ歩道となってからは大サイズ待避所にベンチが備わって、休憩するのにもってこいです。

向かって右側には小サイズと中サイズの待避所があり、トンネルの説明版が掲げられている。
向かって右側には小サイズと中サイズの待避所があり、トンネルの説明版が掲げられている。
向かって左側に2か所ある大サイズの待避所は、複数人が休憩できるスペース。ベンチも置かれており、照明も明るいので休憩にはちょうどいい。
向かって左側に2か所ある大サイズの待避所は、複数人が休憩できるスペース。ベンチも置かれており、照明も明るいので休憩にはちょうどいい。
大サイズの待避所からトンネルをのぞいてみる。
大サイズの待避所からトンネルをのぞいてみる。

中間地点が登場。実はずっと出口へ“登っていた”

「0.7km←出口→0.7km」

トンネル内部には、現役時代からのものと思しき距離を知らせる看板が壁面に掲げられているのですが、数十分歩いてやっと中間地点へ到達しました。その先に「110」の数字が。キロポストです。東京駅を起点として110km地点が、大日影トンネルのほぼ中間地点となりました。

ちょうど中間地点へ到達。トンネル出口の大きさが同じに見えるとのことで、たしかに同じに見えた。
ちょうど中間地点へ到達。トンネル出口の大きさが同じに見えるとのことで、たしかに同じに見えた。

小休止しながら、それにしても内部はモルタルの再結晶や開業時代の蒸気機関車の煤(すす)などで茶褐色のレンガ色ではなく、あちこち汚れているのに目が止まります。一体どれくらいの列車がここを行き来したのか知る由もないですが、竣工から121年は経過しており、その汚れがグラデーションとなって馬蹄型の形状に染み込んで、これはトンネルの年輪みたいなものだなと感じました。

壁面を観察すると補修した痕跡が残っており、トンネルの年輪のように思えた。
壁面を観察すると補修した痕跡が残っており、トンネルの年輪のように思えた。
110kⅿキロポストがたたずんでいる。
110kⅿキロポストがたたずんでいる。

再び歩き始めます。閉門時間まではまだ十分にありますが、まだ半分ほど歩きます。と、壁面に勾配標が立てかけられていました。片側に下がった腕木には「25」の数字。25/1000(千分の25)、1000m行って25m上がる(下がる)。つまり25パーミルの勾配がついているということです。

25パーミル勾配を示す勾配表。トンネル内の狭い場所の勾配表の腕木は本来両方にあるが、片方が取れた模様である。
25パーミル勾配を示す勾配表。トンネル内の狭い場所の勾配表の腕木は本来両方にあるが、片方が取れた模様である。

中央本線は笹子トンネルから甲府盆地まで下り勾配の連続です。大日影トンネル内も25パーミルの勾配がついており、人間でも坂道を感じるほどの勾配です。トンネルへ入ってからは、逆にずっと上り勾配となっていたのです。急坂ではないので足に負担がきませんでしたが、小休止すると意外と体力を消費したんだなぁと感じるほど、少し息が上がってきます。

開渠(かいきょ)水路が備わりコンクリート道床となった部分。先ほどとはトンネル内の雰囲気が変わって地下鉄のようにも見える。もう一カ所の大待避所はこの地点にある。
開渠(かいきょ)水路が備わりコンクリート道床となった部分。先ほどとはトンネル内の雰囲気が変わって地下鉄のようにも見える。もう一カ所の大待避所はこの地点にある。

と、今度は線路の中心部が水路となって開削されています。看板があったので危険回避できましたが、暗闇にわずかな照明だったらハマってしまいそうな罠(わな)です。バラスト敷きであった線路はコンクリート道床となって、地下鉄の線路みたいな雰囲気に変わります。

しゃがんで道床とレールつなぎ目部分を観察。つなぎ目のプレートには経年によるシミが付着していた。
しゃがんで道床とレールつなぎ目部分を観察。つなぎ目のプレートには経年によるシミが付着していた。

大日影トンネルは湧水があって、その対策として東京側の約330mの線路をコンクリート道床にして、中心部分に開渠水路を設けて水の処理としました。水路がトンネルの途中で途切れているのが謎ですが、開渠水路の終端部はバラスト道床の底部に水路が潜っていたので、線路の下を水が流れているのでしょう。先ほど見た湧水もこの水かもしれません。

開渠水路の部分に「100 1/2」キロポストがあった。東京駅起点から100.5km地点。
開渠水路の部分に「100 1/2」キロポストがあった。東京駅起点から100.5km地点。

やっとのことで出口へ。帰り道はギリギリの時間に……

トンネル内部は線路がコンクリート道床となって、がらっと表情を変えました。水路は水がこんこんと流れ、はたしてどこから湧いて出た水なのだろうと気になります。出口の先はすぐ深沢という谷間の沢があって、水気の多い場所です。と、開渠水路とコンクリート道床が突如として終了しました。てっきりトンネル出口まで続いているのかと思っていただけに意外です。湧水がひどい場所だけこうしたのでしょうか。

壁面の距離標が「0.1km」を示すころ、前方の明かりも大きくなってきた。レールはまた普通のバラスト敷きへと戻っている。
壁面の距離標が「0.1km」を示すころ、前方の明かりも大きくなってきた。レールはまた普通のバラスト敷きへと戻っている。

外の明かりはだんだんと大きくなっていき、壁面の距離標も「0.1km←出口→1.3km」となりました。

やっと出口だぁ。

出口の先で出迎えているのは次なるトンネル「深沢トンネル」の坑口である。あちらはワインカーヴとなっているため、堅牢な扉で封印されている。
出口の先で出迎えているのは次なるトンネル「深沢トンネル」の坑口である。あちらはワインカーヴとなっているため、堅牢な扉で封印されている。

大日影トンネルの出口まであと一歩。内部からはワインカーヴとなった深沢トンネルの坑口が見えます。到着! 振り返ると石積みの坑口が構えていました。入ったときのレンガの坑口と表情が異なり、別のトンネルへ出てきたのかと錯覚しちゃいます。

大日影トンネルを出て振り返ると入り口と異なって石積み構造。違うトンネルへ出たのかと錯覚しそう。
大日影トンネルを出て振り返ると入り口と異なって石積み構造。違うトンネルへ出たのかと錯覚しそう。
レールには1961年の刻印が。国鉄時代から線路付け替えの1997年まで使用されてきた。
レールには1961年の刻印が。国鉄時代から線路付け替えの1997年まで使用されてきた。

真向かいの深沢トンネルも石積みであるから合わせたのかと思いましたが、周囲は深沢というだけあってV字の谷となっており、底部を深沢川が流れています。大日影トンネルの先は深沢川を渡り、すぐ深沢トンネルへと続く構造です。石積み坑口は耐久性があり、地形的に厳しい谷間に適切だったのではとも思います。

大日影トンネルを出た先の遊歩道橋梁から眼下をのぞくと、深沢川は河川隧道(ずいどう)となっている。トンネル建設と同時に河川隧道も整備され、こちらはいまも現役である。
大日影トンネルを出た先の遊歩道橋梁から眼下をのぞくと、深沢川は河川隧道(ずいどう)となっている。トンネル建設と同時に河川隧道も整備され、こちらはいまも現役である。
大日影トンネル周辺の工事状況を知らせる案内板。この案内板は勝沼ぶどう郷駅側に掲示されている。古写真には建設時の状況が写っており、深い谷間に造られたのが分かる。
大日影トンネル周辺の工事状況を知らせる案内板。この案内板は勝沼ぶどう郷駅側に掲示されている。古写真には建設時の状況が写っており、深い谷間に造られたのが分かる。
深沢川は遊歩道用の橋梁となった。石積み坑門の大日影トンネルを見る。石積みだとより重厚感あふれる。
深沢川は遊歩道用の橋梁となった。石積み坑門の大日影トンネルを見る。石積みだとより重厚感あふれる。

これにて大日影トンネルの遊歩道散策は終了……ではありません。来た道を戻らないとなりません。気づけば夕方に迫ってきました。門扉が閉まったら国道20号まで出て迂回しないと。

気持ち早歩きで勝沼ぶどう郷駅側へと目指します。今度は下り勾配。早歩きだと速度がついてきます。なるほど、25/1000勾配を感じる!ちょっと感動。背後で男性二人組が「こんなトンネルがあるのか!」と感動しながら歩き始めましたが、彼らはワインカーヴに車を置いてきた様子。

「あと20分で閉鎖します」

いきなりの放送が入りました。しっかりと時間を教えてくれるのはありがたい。いや、あの人たちは戻って来れるのか?と気になっていると、前方から係員のおじいさんが現れて、駅側から来たのか?と質問されたあと、

「向こう側(深沢)の扉を閉めてから戻ってくるので、取り残される人はいないよ」

とのことで納得。門扉は手動だろうと思っていましたが、係員の方が毎日トンネルを往復して開閉しているとは。スタスタと歩き去っていくおじいさんの背中を眺めながら、地域の人々に支えられて鉄道遺構が残されているのだなと、あらためて感じました。

トンネル内は見どころも多いので、訪れるときは時間の余裕をもってお越しください。

深沢トンネルはワインカーヴとなっており関係者しか入れないものの、入り口部分は見学できた。重いドアを開けると、気持ちひんやりとしていた。一定な気温と湿度がワイン貯蔵に最適なのだ。ワインのオーナーになればこの先も入ることができる。
深沢トンネルはワインカーヴとなっており関係者しか入れないものの、入り口部分は見学できた。重いドアを開けると、気持ちひんやりとしていた。一定な気温と湿度がワイン貯蔵に最適なのだ。ワインのオーナーになればこの先も入ることができる。

取材・文・撮影=吉永陽一