初めて訪れる信州上田は、名将・真田氏ゆかりの街であり、南北の雄大な山々に囲まれる歴史と自然が共存する豊かな街。一級河川の千曲川のほとりで川魚を楽しみ、お店によって味が異なる名物「美味(おい)だれ」で焼き鳥をいただいた。大満足で東京への帰路につくその前に、締めの一杯を探していた。
なるべく駅の近くがいいなと、名残惜しそうに駅周辺を散策していると……おや?
上田駅を出て数秒の雑居ビル。そこに「信州上田 たべのみ処」と大書された看板が輝いている。そして、その横には「飲食街 地下」の文字……これを見た瞬間に、下腹部がキューッとモジモジとし始める。そう、私の「青木まりこ現象」と似た現象が起こる場所とは、雑居ビルの地下飲食街なのだ。
薄暗く続く階段……いざ、地下飲食街酒場へ
地方都市ではよくある、駅前の人気(ひとけ)のない雑居ビル。そこから地下へと続く階段。ちょっと、下りてみよう。
折り返し階段の外壁は色褪せており、踊り場の掲示板には地下にある店を紹介する張り紙がいくつも張られている。この人気(ひとけ)がなく、無機質な感じがたまらない……このまま一番下まで下りよう。
階段を下りてみると、小さな地下街が奥へ延びていた。時間がまだ早いせいか、店のほとんどが始まりきっていない……この感じ、まさしくこの感じが私の下腹部をモジモジとさせる空間なのだ。
人気(ひとけ)をまったく感じさせない……ただ、決して不気味な感じではなく、むしろ落ち着くからこそ、下腹部がリラックス(緩く)なるのである。地下街「信州上田 たべのみ処」ここは合格と言わざるを得ない。
下腹部をさすりながら、ゆっくりと奥へと進む。時間が早いせいか、ここは本当に店がやっていない。ただ、一番奥まで進むと1軒だけ人の気配を感じた。それが『酒蔵 信濃』である。
いいですねぇ、これぞ地下街の酒場らしいシンプルな外観。テナント式の地下街は、外観の造りが限られる。表にはざっくりとしたメニューを並べ、あとは看板と暖簾(のれん)を掛けるくらいだ。閉鎖的な空間で店の中が見えないとなると、さらに入りづらくはなるが、私の下腹部のモジモジは限界に近い。急いで中へ入ってみよう。
上田の“きれい”な日本酒をいただく
「いらっしゃいませ~」
おおっ、これはすばらしい! 民芸風の店内は、半分がカウンターと半分は奥へL字に延びる小上がり。全体的に視点が低く、壁一面に写真やカレンダー、地図やフラッグなどで埋め尽くされており、どこかの民家の居間の雰囲気を醸し出している。
日本人であれば、誰もがくつろげるような雰囲気。その光景を、目いっぱい堪能できる店の一番奥の小上がりを陣取ることに成功した。まずはこの酒場……いや、地下街との出合いに乾杯すべく、酒をお願いするのみだ。
メニューに「チューハイ」なんて文字を見つけたものだから、迷うことなくご指名。汗をかいたジョッキには強めの炭酸の泡が美しく、旅で疲れた体にはもってこいである。
なんやかんや、信州上田に来てやっといただくことができた野沢菜。やはり山菜大国であるがゆえ、そんじょそこらの野沢菜ではない。サクッ、ジュワッと、気持ちいい歯触りと、ちょうどいい漬かり具合が見事としか言えない。いや、ここで野沢菜を食べることが必然だったのかもしれない。
あっさり味の後は、ちょっと“パンチ”のあるものが欲しくて焼き肉を頼んだのだが、これも正解。豚バラ、ピーマン、玉ねぎ、ニンジンをザッと炒めてザク切りキャベツに敷き詰めた、いい意味でイメージと違っていたビジュアル。割り箸で鷲づかみして口へ放り込むと……旨い!
甘さ強めでほのかに辛く、ピーマンのシナシナ具合が豚バラとベストマッチ。ああ、これから「焼き肉」と聞いたら、これを思い出すかもしれない。
今日は日曜日。店にはぽつぽつと客が入っては、サクッと酒を飲んで帰る客が多かった。フフフ、もしかすると、私と同じように地下街に迷い込み、それから下腹部がモジモジしてここへたどり付いた客ばかりか……いや、違うかな。
そんな想像にふけっていると「すし(山ごぼう・ふき味噌)」がやってきた。寿司にこんなことを言うのは初めてだ、とにかく“かわいい”ルックスである。
橙色の山ごぼうは細くて丸く、食べるとシャリの中で「コリッ」とした食感がいい。うっすらと味の付いた根菜特有の風味が、巻き寿司とピタリと合う。
ふき味噌の巻きずしなんて、ふき味噌好きの筆者にはたまらない味わいだ。醤油など付けずそのままいただくと、ふきの清涼感と味噌のコクが口中にスッと広がる。まさしくこれが“滋味”という味わいなのだろう。ぜひとも、大手回転ずしチェーン店のグランドメニューにしていただきたいものだ。
メニューを見て、最初から決めていた「次の料理」に備えて相方を変えよう。ここは日本酒、それもここ上田の酒がいい。そうなると、昼間に訪れていた『岡崎酒造』の酒である。
「すいません、この『亀齢(きれい)』という日本酒を下さい!」
「はーい、“きれいちゃん”ね~」
なぜか“ちゃん”を付け加える女将さん。そんなかわいい女将さんは「写真撮るでしょ?」と、一升瓶ごと持ってきてくれた。
もうね、お猪口を口元に近づけるだけでおいしいと分かる。個人的な感想で言うと、日本酒のおいしさとは「甘・酸・辛・苦・渋」で成り立つものだが、これはそのどれもが均等に配分されている。中性的な味わいだけに、料理には一切邪魔しないだろう。
それを確かめるための“次の料理”とは馬刺しである。深〜い、赤色……いや、紅色というべきか。この色を放った馬刺しでまずかったことは一度もない。
それを裏付けるために食べてみると──旨いっ! シコシコとした肉の舌ざわり、馬肉の脂が舌にネットリととろける。これを亀齢(きれい)が、きれいに流し込んでくれるという無限ループ……このマタッリとした幸せに、また下腹部がモジモジしてきそうだ。
「お会計、5900万円ね~」
「19時半でお終いなの」
19時を過ぎた頃、入ってくる客を断り続ける女将さん。そして、なぜだかそれをうれしそうにしているのだ。理由を聞いてみると……。
「今日はね、父の日だからね」
どうやら、店を閉めた後に、カウンターの中で働く大将らを、父の日ということでお祝いをするらしい。ジーンとしちゃうね……おっと、それならこんな長っ尻はしていられない。残っている亀齢をきれいに飲み干し、お会計をお願いする。
「女将さん、お会計お願いします」
「はーい、じゃあ……5900万円ね〜」
「あはは、じゃあ6000億円からお願いします!」
久しぶりに、こんなベタな冗談を言われた気がする。この感じだと、このあとの父の日も楽しいのだろうな。
「ありがとうございました~」
「ごちそうさまでした。また来ますね!」
店を出ることには、下腹部のモジモジのことなどすっかり忘れていた。それでも、今後は地下街を訪れるたびに、下腹部をモジモジさせながら、きっとこの酒場を思い出すに違いない。
取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)