ポルトガルから種子島へ。鉄砲の伝来
鉄砲が日ノ本に伝来したのは戦国後期の天文12年(1543)の8月25日。
学生の時に年号だけは語呂合わせで暗記したぞと言うものもおるのではないか?
種子島に漂着した明の密貿易船に乗っておったポルトガル人から、種子島を治めておった種子島時尭(たねがしまときたか)殿が買い受けたのじゃ。
当時の時尭殿は16歳であったと聞く。
若くしてこの見たこともない武器の真価を認めたことは誠に天晴れな慧眼であるわな!
鉄砲に惚れこんだ時尭殿は鉄砲を自ら作ろうと考え、家臣に火薬と銃の研究をさせてその再現を試みたのじゃ。
紆余曲折をへて鉄砲作りは見事成功し、国産の鉄砲が作られるようになったために日本中に広まっていくこととなったのじゃ。
この辺りの経緯は種子島家が記した『鉄砲記』に記されておるで興味が湧いたものは読んでみよ!
種子島時尭殿は明の密貿易船から二丁の火縄銃を買い、一丁は自らが持ちもう一丁は種子島家の主君である島津家に贈っておった。
島津家がこれを当時の室町幕府将軍、足利義晴様に贈ったために畿内でも鉄砲の研究が進み、多くの国産の鉄砲が製造された。
西暦1550年ごろには日ノ本各地の戦で鉄砲が用いられておって、伝来から10年を待たずに大きく普及し、戦の在り方を変えていったのじゃ。
戦国時代において日ノ本で使われた鉄砲は50万丁を超え、世界一鉄砲を持っておった国でもあったとも言われておる。
火器後進国であった日ノ本が戦国の世の需要に押されてあっという間に世界最高の鉄砲大国へと成り上がったというわけじゃな。
数もすごいのじゃが日ノ本の火縄銃は性能も良くてな、輸入のものよりも国産の鉄砲が求められておった。世界最高峰とも称される日ノ本の技術力は古くから変わらぬものであるわな!
長篠の戦いの逸話とは?鉄砲が変えた戦の在り方
鉄砲によって大きく戦が変わったと先に申したが、何を大きく変えたのか。
これはいくつもの要素があるのじゃが、一番大きいのは物量がものを言うようになっていったことであろう。
「衆寡敵せず」という言葉があるようにそもそも戦は数が多い方が勝つじゃろうと、そう思った者よ、お主は実に正しい。
なんじゃが、戦においては兵の練度や士気も大いに関係したのじゃ。
弓や刀や馬を操るには技術が必要でな、兵たちにも相応の訓練を積ませる必要があった。
特に弓はその色が強いわな。鍛錬を積んだ弓使いはそれはもう強いぞ。
故に精鋭の小さな軍が寄せ集めの大軍を破ることがしばしばあった。
然りながら、使い方さえ覚えれば鍛錬の必要なく誰でも使える鉄砲の出現によって、寄せ集めであろうとも大きな力を容易に発揮できるようになったというわけじゃ。
想像しやすいのは長篠の戦いにおける織田家の鉄砲三段撃ちと武田騎馬隊の構図じゃな。
まことの長篠の戦いでは三段打ちや武田騎馬突撃どころか、特別多くの鉄砲が用意されておったというわけでもないのじゃが、戦の仕方が移り変わる象徴として新進気鋭の織田軍と古豪の武田家構図を用いて逸話として語り継がれておるのであろう。
因みに実際の長篠の戦いの決め手となったのは、数で大いに勝る織田軍が兵を隠し、織田軍を少なく見積もった武田が決戦に誘い込まれたことにある。
信長様による見事な情報戦と数による勝利と言えるであろう!
そして、鉄砲の普及により変わった事がもう一つ。
貿易に有利な西国が大きな力を持つようになったのじゃ!
鉄砲における地域差
鉄砲は国産のものが中心となっておったのじゃが、火薬に用いる硝石は日ノ本ではなかなか手に入らず輸入に頼っておったのじゃ。
さらに鉄砲の産地も大阪の堺や滋賀の国友(くにとも)、和歌山の根来(ねごろ)が中心で、畿内に偏っておったために東国大名は手に入れるのに難儀することとなる。
先の長篠の戦いに絡めて武田は騎馬隊の強さ故に鉄砲を軽視しておったと語られる事があるが、軽視しておったのではなく火薬不足故に大規模に編成する事が叶わなかったのであろう。
その後も時代が進むにつれ軍における鉄砲隊の占める割合がどんどんと多くなり、戦国最後の大戦である大坂の陣は戦のほとんどが銃撃戦であったと伝わっておる。
武勇のものが激しくぶつかり合う戦から銃撃戦へと、日ノ本の戦を二分するのであればやはりこの時代が境目になるのであろうな!
鉄砲vs弓。実は弓もすごい
さて、ここまでは鉄砲がいかに有用であったかを話して参ったが、これよりは思いの外、弓も有用だったんじゃという話で締めたい。
戦国の世までは、腕のたつものが使った前提ではあるが鉄砲と弓にそれほど大きな性能さはなかったのじゃ。
ツルが強く張られた強弓を剛腕の武士が射れば、飛距離も威力も劣らない恐ろしい遠距離攻撃となる。
そんな時代だからこそ起きた弓と鉄砲の白熱した戦いがいくつか残っておる。
此度はその中から一つだけ紹介いたそう。
信長様が尾張統一のために岩倉織田家と戦った浮野の戦いでの一幕じゃ。
若き信長様の砲術の師であった橋本一巴(はしもといっぱ)様と、弓の名手として知られておった敵方の林弥七郎殿が相対することとなった。
名手同士の一騎打ちは周りの皆が戦を止めて見つめる中、行われたのじゃ。
旧知の仲であった二人は、最後の言葉を交わし同時に鉄砲と矢を放ち互いに命中。相討ちとなった。
信長公記には敵ながら「林の手練は見事あった」と記されるほどの名勝負であった。
この時、倒れた林殿の首を取ったのがわしの弟・佐脇良之である。
因みにこの浮野の戦い、わしも武功をあげておってこの戦の頃から槍の又左と呼ばれるようになったのじゃ!
他にも鉄砲上手の黒田長政と、弓の名手の立花宗茂殿が的を相手に腕試しをして、勝利した宗茂殿が長政の鉄砲「墨縄」を貰い受けた話などいくつか残っておるぞ!
鉄砲は天候に左右されやすいことや多くの物資が必要となること、連射ができぬことなどの欠点がある。
反面、弓は天候の影響をそれほど受けぬ、敵が放った矢を転用することもできる、矢文や火矢などの活用もできる……と利点も数多あった為に併用される事が多かった。
城の塀にある狭間(さま)に、鉄砲狭間と矢狭間が交互に作られておる事が多いのはこれが理由じゃな。
時代が進み江戸時代に入ると鉄砲が占める割合が増えた為に鉄砲狭間のみの城も出て参るがな!
此度は鉄砲について話して参ったが、歴史は人物史も面白いが技術を追うのもまた一興。
視点を変えて武器や道具の歴史に触れても面白いであろう。
して、鉄砲は多くの城郭や博物館で展示がなされておる。秋が進み過ごしやすくなった折には旅行の秋の楽しみの一つとしても良いかもしれんな!
此度の戦国がたりはこれにて終いといたそう。
次の戦国がたりも待っておれ、さらばじゃ!
取材・文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)