気取らず、気楽に。立川の集いの酒場
立川駅の南口から歩いて5分の場所で、2008年からひっそりと営業する『酒歩たから』。辺りが暗くなる17時から営業を始め、店の明かりに惹きつけられて自然と人が集まってくる。
カウンターで手際よく腕を振るうのは、店主の岡村奈美さん。オープン以来、店を一人で切り盛りしている。岡村さんが『酒歩たから』をオープンしたのは40代のとき、異業種からの転身だったそう。
「ずっと小売店で販売の仕事をしていましたが、お店を閉めるかもしれないという話が出て新しい職を探していたんです。居酒屋の店主を選んだのは、立川にあった行きつけの居酒屋がきっかけ。その店には年齢も職業も違うお客さんが集まっていて、普段は出会えない人たちとおしゃべりするのがすごく面白かったんです」
いつも常連でにぎわっている同店だが、初めての人でも入りづらい雰囲気は不思議とない。岡村さんはあえて“見守りスタイル”で、客の会話には必要以上に入らないそう。そんなほど良い距離感もあって、客は各々が気ままに過ごしている。カウンター席に座っても「なにか話さなくては」なんて気負わずゆったりと過ごせる。そのため、一人で来店する人も多いのだとか。
岡村さんは「私がすごく話すわけではないので、“今日はのんびり飲みたいな”という気分のときにはいいと思いますよ。逆に、たくさんおしゃべりしたい人にはちょっと物足りないのかも」とお茶目に笑う。
木を基調とした温かみのある店のつくりと、岡村さんや常連客が作り出す雰囲気のおかげか、どことなく実家に帰ってきたような安心感さえある。どんな人でも受け入れるオープンな空気に包まれた空間は、足を踏み入れたときから、すぐにリラックスできるだろう。
「立川では“多様性”という言葉が浸透する前からいろんな人が当たり前のように一緒に飲んでいて、そんな街の懐の深さも好きでした。私もこんな空間が作れたらいいなと思って、この街で店を開いたんです」
さりげない愛情を感じる、体に優しい日替わりの一品料理
ふと壁に目を向ければ、手書きのお品書きがずらりと貼られている。ご飯もの、麺類、おつまみと、おなかのすき具合で選べる豊富な品ぞろえがうれしい。オープン当初は8品ほどしかなかったメニューも、客のリクエストに応えるうちにここまで増えたのだとか。
「お客さんが飽きないように、料理の内容は日によって替えています。自分の気分で作るときもあるし、お客さんの顔を思い浮かべて“これはあの人が好きそうだな”なんて想像しながら作るときもありますね。季節の素材を使ったり、添加物を控えたりと、なるべく体に優しい料理を心がけています。おかげさまで“ここで食べる料理は安心するね”と言ってもらえることもあるんです」
たくさんあるメニューから注文に迷い「おすすめを何品か見つくろってもらえますか?」とお願いしてみると、すぐにパパッと用意してくれた。岡村さんが手際よく料理を作る様子をカウンター越しに眺めながら、お酒を飲んでのんびりと待つ時間もまたいい。
この日、日本酒に合わせていただいたのは彩り豊かな計3品。どれも岡村さん特製のお酒に合う一品料理だ。
お皿の上できれいに丸められたチーズオムレツは「私のおすすめで、お客さんからも好評です」と、岡村さんからもお客さんからもお墨付きの一品。美しい黄金色と、ふっくらとした見た目に食欲がそそられる。
パクリと食べてみると、とろとろ、ふわふわの食感に一口でとりこになってしまった。粉チーズをたっぷりと入れているので、生地全体からまんべんなくクリーミーさを感じられ、最後の一口までチーズの香りを堪能できる。
チャンジャクリームチーズは、肉問屋から仕入れたチャンジャを独自にアレンジした本格派。チャンジャ好きも認める一品なのだとか。チャンジャのコリコリ食感とピリ辛な旨味を、クリームチーズがまろやかに包み込み、意外にもクセがなくあっさりと食べられる。日本酒との相性は言うまでもないだろう。
最後は、季節のお総菜としてチョイスしてくれたニラのごまおひたし。やさしい味付けのなかに、シャキシャキとしたニラとゴマ油が香る、ほっとする味わいだ。
どの料理も、家庭料理のような素朴さと居酒屋ならではの手の込み具合をほど良いバランスで感じられ、食べたあとは心の中がぽかぽかする。
全国各地の地酒と出合う。月に一度、音楽に身をゆだねる一夜も
お酒の種類は酎ハイ、サワー、焼酎、ビールなど定番は一通りそろう。料理と同じく、国産無農薬の茶葉を使ったウーロンハイや、国産大麦若葉の青汁ハイ、トマト100%のトマトハイなどさりげなく健康志向なところに、岡村さんの“お客さん思い”なところが垣間見える。
定番はもちろんのこと、定期的に入れ替わる地酒も楽しみたい。
“日本酒の聖地”と称される大正3年(1914)創業の多摩市の酒屋『小山商店』から仕入れる地酒は、全国から選りすぐった酒ばかりだ。岡村さんの好みで、味わいが重めの純米酒を仕入れることが多いそう。滅多にお目にかかれない地酒が登場することもあるので、お品書きを忘れず見てみよう。
お酒だけではなく、店内で月に1度のペースで開催される音楽イベントも魅力だ。アラブの打楽器によるパーカッションライブやベリーダンスなどを、普段はなかなか見られない距離感で臨場感たっぷりに楽しめる。イベントの日は、遠方からのファンが駆けつけるため客層もがらりと変わるのだとか。会話を楽しむ人、お酒に向き合う人、音楽に身をゆだねる人。さまざまな人が集まる『酒歩たから』の一夜は面白い。
取材・文・撮影=稲垣恵美