アートホテル入り口にある変幻自在のスペース
はじまりが遅かった梅雨のまんなかで、傘を手にビルとビルのあいだを速歩き。今日の取材先は経済の中心地・日本橋にあるしゃれたアートホテルということで、私自身の生活からは離れすぎて緊張が否めないが、このドキドキは嫌いじゃない。東京に住んでいても「東京に来た」感がある。
アートホテルとは、館内や客室にアート作品が常設してあり、美術館に泊まるように楽しめるホテルのこと。今日の店は『BnA_WALL(ビーエヌエー ウォール)』というアートホテルの1階にあり、宿泊客以外も利用できるスタンドスタイルの飲食店。「東京ローカルの人々と宿泊客をつなぐ場」をコンセプトに作られている。
ユキさんは先に到着していたようで、コーヒーを飲みながらお店の方と親しげに話し込んでいる。聞くと彼女は、ここの客室のアートディレクションを担当されたとのこと。
「303、305号室の『SUSHI WARS』という部屋をディレクションしたんです。コンセプトから細かいモノの配置まで。当時はコロナ禍で時間があったので、仲間と一緒に壁も塗りましたよ(笑)。イベントのときなんかは私も宿泊させてもらって、夜にこの『STAND BnA(スタンドビーエヌエー)』でお酒を飲みますね」
おお……音楽プロデューサー、DJの肩書きで彼女を理解していたが、アートディレクションの仕事もするのか……。ますます謎が深まりつつも、まずは『STAND BnA』の広々とした空間を歩いて見渡してみた。
ホテルのラウンジも兼ねているこの店は、ソファスペースにバーカウンター、奥にはスタンド席もあってさまざまなスタイルで飲食ができる。DJブースもあり、パーティーにも対応。そこかしこにアート作品が配置されていて、作品は購入可能とのこと。
またカウンターまわりは照明の色を自由に変えられ、パーティーのコンセプトや天候などにあわせて毎日スタッフの方が配色を決めているそう。
ラウンジでもカフェでもバーでもあり、クラブでも美術館でもある。そのなかで過ごす人や飲み食いするもの、かかる音楽によって姿を変える変幻自在のスペース。とにかく空間設計そのものに遊びがあり、アートホテルの顔として機能しているのがよくわかる。
「酒×スイーツ」のよろこびを知る
『STAND BnA』は、朝は8時から夜は22時まで、朝食・ランチ・カフェ・バーと時間帯でフードメニューを変えて営業している。訪れるタイミングによってさまざまに楽しむことができるそうで、今はカフェタイムだ。
「今日はこのあと仕事ないから飲んじゃおうかな」とユキさんがオーダーしたのは、『深川蒸留所』の「FUEKI」を使ったジンソーダ。実はこれ、以前取材したお店でも登場した東京のクラフトジンで、感動的においしかったのでよく覚えている。
私は檸檬のジンで同じくソーダ割りを作ってもらい、乾杯! 梅雨の湿っぽさをさわやかな酸が駆け抜けていくのが気持ちいい。そんなジンに合わせるのは、新商品だという『STAND BnA』自慢のスイーツたちだ。
スイーツの注文は17時までのカフェタイム限定ということで、酒×スイーツ、実ははじめてやってみたけれどこれは……大いにありかも! ディナーへの橋渡しにも、ディナーの締めにもなりそうで、ちょっと追究しがいがあるな。
プリンブリュレはその名の通り、硬めのプリンの上部がクレーム・ブリュレのようにカリカリに仕上げられている。クレーム・ブリュレと違ってひっくり返すプリン型なのが富士山モチーフに見えるらしく(上のクリームは冠雪?)海外から来たお客さんにも人気とのこと。なるほどな〜!
フィナンシェはプレーン、チョコレート、抹茶の3種類があり、せっかくなのでコンプリート発注。なぜだろう、焼き菓子がきれいに盛り付けられているとそれだけで心躍ってしまいます……。ちょっと大きめサイズなのがたまらない。
これらをゆっくりいただきながら、ユキさんの謎めいた部分に迫る。
あらゆる手段で“パラダイス”を追求したい
ユキさんはご自身でも飲食店を経営されている。渋谷にある、高品質の音響設備やDJブースをそなえた、音楽と酒やつまみを楽しめるバー『しぶや花魁 OIRAN SHIBUYA』だ。クラブへ行く前のウォームアップをコンセプトにした店で、毎晩音楽好きが集う。
音楽プロデュースにDJ、お店も経営しながら、さらには今回のようなアートディレクションまで……失礼ですが、ユキさんっていったい何者なんでしょうか?
「肩書きは一応、音楽プロデューサー・DJとすることが多いんですけど、私はとにかく自分の実現したい世界を目指しているだけなんですよね。音楽を作ったり選曲したり、空間を作る、文章を書く……手段がいろいろと変わっているだけで、結局やりたいことはずっと同じ。心地いい場所、私にとっての“パラダイス”をいつも追い求めているんです」
フェスやイベントでのDJ、アイドルやゲーム音楽のプロデュース、ラジオパーソナリティ、バー経営、作詞、文筆。音楽にまつわることを軸になんでもやってきた。頼まれごとを引き受け、その現場ひとつひとつで自分の目指す世界を表現しているうちに、現在のキャリアが形成されたという。
「歳を重ねると、いろいろなことをスムーズにやれるようになっていく気がしてね。逆に同じことだけを続けるのは難しい。そうやっていろいろやり方を変えながらも、ずっと音楽に関わってきてよかったなと感じるのは、年齢とか立場とか関係なく音楽が好きな人に会えて一緒にいろんなことができるっていうこと。それはひとつのパラダイスのかたちだと思ってます」
よくわからないけどすごい人……と雑に認識していたが(ごめんなさい)、話を通してユキさんの言うことはとてもシンプルに感じられた。ひとつの道をきわめていく美しさもあれば、目指す世界へ向かって手段を選ばぬ美しさもある。そして後者が、彼女によく似合っている。
人と人、人とアートが出会う場所
ユキさんは2024年、神奈川県の大磯に住居を構えて東京都内との二拠点生活をはじめた。大磯といえば、湘南エリアにある海沿いの街だ。はじめはパートナーの意向だったものの、実際に暮らしはじめて二拠点生活の心地よさがわかってきたという。
「東京都心が、どんどん窮屈な場所になってきていると感じます。大磯に帰ると、野菜とか海産物とかの地産食材がおいしかったり、空気がきれいだったり……そういうことでなんだか解放されて、前向きになれるんです」
都市の再開発にコロナ禍が重なり、都心からいくつものクラブやライブハウスがなくなった。ユキさんが大切にする“パラダイス”に近い場所が、きっと急速に減ったのではないだろうか。私自身も、好きな空間がなくなる知らせを嫌というほど目にしてきた数年だった。
そうは言っても、やはり東京はカルチャーの中心。この『BnA_WALL』のように、音楽やアート、そして人びとの集う場がまた新しく生まれてもいる。ユキさんの二拠点生活は、彼女がそういうものに関わって仕事をしていくことの持続性を高めているように見えた。
『STAND BnA』は、飲食店として人と人のコミュニケーションを促す機能を持ちながら、展示場として人とアートの思いがけない出会いを生む役割も担っている。広報担当の方によれば、東京で活動するいわゆる未発掘アーティストの作品を海外客が買って帰ることも多いらしい。ユキさんが思い描く“パラダイス”と共鳴する思想が、ここにも散りばめられているようだ。
「また近々携わったプロジェクトのリリースもあるし、そろそろ人の手伝いばっかりじゃなく自分の作品も出したいと思って、最近は曲書いてますよ」と笑うユキさんからやさしくも強く発されるエネルギーは、変幻自在なこの空間とよくマッチしていた。
帰りの電車で一人になってもまだドキドキしていた。日本橋の街も『STAND BnA』の空間もユキさんとの会話も、すべてが刺激的で……。
もちろんそれにともなう疲れもあるのだが、同時に活力がみなぎってくるのを感じる。音楽やアート、新しいものを感受したときの興奮がちょっと久しぶりで、しばらく収まりそうにない。もらったエネルギーでそのまま、時季の憂鬱さえ散らしてしまえそうだ。
取材・文・撮影=サトーカンナ