あこがれの的となったセーラー服
なかでも東京女子高等師範学校附属女学校の制服には、乗客たちの注目が集まる。東京に数ある女学校のなかでも最難関、嘉子が受験した年も競争率20倍の狭き門だった。「女子の最高学府」とも呼ばれ、高いブランド力を誇っている。
セーラー服の茶色いリボン、それと同色の腰に巻かれたベルトのバックルには才女の証である校章が輝く。他校の女学生が羨望の目で見つめる。
そんな名門女学校を優秀な成績で卒業し、一流の花嫁への切符を手にした嘉子だったが、惜しげもなくそれを捨ててしまう。
卒業が間近に迫った頃、進路について悩んだ。このまま家で花嫁修業でもするか、女子大学で国文学でも学んでさらに”一流の花嫁への切符”に箔をつけるか……しかし、どちらも気が進まない。良縁を待つだけの消極姿勢は、自分の性分にあわない。そんな時に父の貞雄から、
「専門の知識を身につけて、それを生かせる仕事に就きなさい。法律を学ぶのがいいかもしれない」
と、アドバイスされる。東京帝大法学部出身の父は、近い時期に弁護士法が改正されるのを見越していたようだった。実際、昭和8年(1933)には、これまで男性に限られていた弁護士資格が、女性も取得できるように改正される。
明治大学でも、法改正を見越して法科と商科の2学科からなる女子専門部(明治大学短期大学の前身)を新設していた。専門部は官立大学でいう予科のようなもの。卒業後は明治大学に進学でき、弁護士資格が得られる高等文官試験に挑むことが可能になる。
「やってみるか」
面白そうだと、好奇心が疼(うず)きだす。
当時、法律や経済を学ぶ女性はかなり珍しく変人扱いされた。「面倒臭い女」として、見合いの席で敬遠される可能性大。また、専門部や大学で勉強しているうちに婚期が遅れて売れ残る。せっかく手にした「一流の花嫁への切符」も価値を失ってしまうだろう。
それでも、かまわない。
結婚して夫に庇護されて生きる。そんな人まかせの生き方はごめんだ。自分の人生は自分で切り開いてゆきたい、と。
女子部の校舎は、谷底にひっそりと隠れてあった
昭和7年(1932)4月、嘉子は明治大学専門部女子部に入学した。同年、法律科には52名が入学しているが、定員の半分にも満たない数だった。やはり、法律を学ぶような女性はかなりの少数派……。
明治大学のある神田は、この頃東京最大の学生街。神田区西端にある駿河台は、江戸時代には大きな武家屋敷が立ちならぶ地域だったが、維新後に空き家が目立つようになり、その空き家を使って私立の法律学校が多く開校される。
明治時代中期になると、東京にある150校の各種学校のうち、大部分の135校が駿河台の周辺に集まり、街は学生であふれるようになる。
やがて法律専門学校は、明治大学や中央大学などの大学に拡大発展し学生数はさらに増大。付近には学生相手の古書店や映画館、喫茶店などが立ちならぶにぎわいが生まれる。
「神田歩けば 貧乏学生と芋女生」
などと、演歌師が歌うラッパ節の歌詞にもある状況が生まれる。嘉子もその”芋女生”のひとりか?
明治大学では女学生用の制服を制定していた。ヒサシのない角帽とブレザー姿は、界隈を歩く女学生のセーラー服と比べて異質なものに映る。すれ違う人々から奇異な視線を向けられる。
人々の視線を避けるようにして、御茶ノ水駅から靖国通りへと通じる駿河台のメインストリートを足早に歩く。現在は明大通りと呼ばれる道だ。道沿いには関東大震災後の復興計画で建てられた3代目校舎がそびえている。が、嘉子たちが学ぶ専門部女子部の場所はここではない。
『明治大学短期大学五十年史』に、当時の女子部があった場所に関する記述がある。
それによれば、明治大学キャンパスの手前、明大通りを右に曲がってとちの木通りに入る。文化学院まで行くと道を挟んで反対側に石段があり、その石段を下り切ったところに女子部の校舎があったという。
人通りが少なく日が差ない谷底に、小さな木造校舎はひっそりと立っていた。ここなら男子学生の好奇の視線にさらされることはない。大学側もそれを配慮して女子学生を”隔離”したのかもしれない。
戦前最後の平和な時を学生街で謳歌する
専門部女子部で3年間過ごした後、嘉子は明治大学法学部に進んだ。
大学では本校舎で男子学生と同じ教室で学ぶ。当初、女子学生は教室の前の方でかたまり、男子学生たちはそれを遠巻きに、まるで”珍獣”でも見るように傍観する。休憩時間の廊下では後ろから女子学生をからかう声も聞こえてくる。ヘンな空気が流れていた。
しかし、半年もすればお互いがなじんで、自然と会話ができるようになり、ノートの貸し借りなどもできる仲になって。
女学生による文芸、弁論、体育、音楽の4つのクラブ活動もさかんになり、嘉子は音楽部に所属。合唱団でソプラノを担当して、自慢の美声を響かせていた。
クラブ活動のない日は、講義が終わると仲間たちと連れ立って学生街に繰りだす。甘味処に入っておしゃべりに花が咲く。
この頃、神保町にはすでに日本一の古書街が形成され、映画館や劇場も増えてきた。また、中国との関係が険悪になっているにもかかわらず、各大学には多くの中国人留学生が在籍している。界隈には彼らが集う中華料理店も多く、ちょっとした“中華街”といった雰囲気も。他所では味わえない本格中華も食べられたという。
日本が戦争の時代に突入する直前、残りわずかな平和な時を、嘉子はこの学生街で存分に楽しんでいた。
だからといって勉強も、おろそかにはしない。昭和13年(1938)春に彼女は明治大学法学部を卒業するのだが、この時、彼女は総代として卒業証書を受け取っている。それは学部内でも一番の成績優秀者に与えられる栄誉だった。
そして高等文官試験の猛勉強が始まった
この後、秋に控えた弁護士資格を取得するための高等文官試験の司法科試験に挑むことになる。楽しかった大学での日々を忘れて、猛勉強に励んだ。
昭和11年(1936)には女性にも受験資格が与えられ、17名が受験したのだが全員が一次試験で落とされている。また、前年は嘉子と同じ明治大学法学部出身の田中正子が一次試験を突破するのだが、二次試験の面接で不合格になっていた。
田中も嘉子と同様、成績優秀な才女として知られていた。それでも合格は難しい。
この頃、専門部女子部は学生数の減少から存亡の危機にあった。人気回復のため、日本初の女性弁護士誕生は大学の悲願になっていた。
自分が合格することで、後輩たちの学びの場が守られる。そう思うと、受験勉強にもさらに熱が入ってくる。
取材・文・撮影=青山 誠