『枕草子』が読み継がれてきたゆえん

大河ドラマ『光る君へ』における藤原定子と清少納言のエピソードが佳境になっている。藤原定子は出家、そして出産。政治劇のなかで翻弄される定子たちの姿は痛ましく、切ない。

しかし実は『枕草子』には、このような定子の巻き込まれた政治劇に関する記述は、ほとんど出てこない。

——私は『枕草子』という作品の面白さは、ここにあると思っている。

というのも、以前も書いたように、『枕草子』は、藤原定子のもとで女房をしていた清少納言の日記である。『枕草子』が単なる宮中記録であれば、清少納言にとって藤原定子の出産や出家は大きなエッセイのエピソードになり得るだろう。しかし、『枕草子』には、それらの記述は一切存在しない。

『枕草子』に綴られているのは……定子サロンの、華やかな日々。それだけである。

なぜ『枕草子』には、定子の暗い話題が描かれていないのか? それは、この作品が清少納言による「推し」布教ブログであるからだと私は思う。つまり、自分の仕える藤原定子の、素晴らしいところだけ、美しいところだけ、楽しかった日々だけ、紙に残したのである。

そう考えると、あえて書かなかったエピソードの取捨選択の物語がよくわかる。

書かなかったものと、書いたもの。そのふたつの選択によって、現代の私たちにとって、たしかに『枕草子』は「平安時代のなんだか素敵なエッセイ」として残っている。

『枕草子』は、推しの素敵な姿だけを綴った——推しのスキャンダルは残さずに——清少納言というひとりの女性によるエッセイなのである。

定子が清少納言に送った和歌

実は、『枕草子』を書いている最中、すでに藤原定子が亡くなっている可能性は高い。

——『枕草子』に記された、定子の、最後の姿。それは定子が子供たちに囲まれ、端午の節句を楽しんでいる、というものである。

宴会の最中、定子は清少納言にこんな歌を渡している。

 

みな人も花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける

現代語訳:ここは子供たちをみんなが囲む宴会だけど、あなただけは、私のことをわかってくれているのね

(原文は『新版 枕草子 現代語訳付き』角川文庫による。現代語訳は筆者作成)

 

端午の節句で、素敵な家族と過ごす日々。横には愛する夫がいて、愛する子供たちもいる。みんなが子供たちに未来をたくし、そしてきゃっきゃと子供たちを愛でている。自分はもう長くないかもしれない。未来は子供たちのものだ。

——しかしそれでも、私の心を、あなただけは知っているのね。

定子が清少納言に語りかけたのは、そういうことだった。

宮中の華やかな場で、たくさんの人が私のまわりにはいるけれど、本当は、あなただけが私のことを分かっていてくれてるのよね。

……これが、清少納言の記した藤原定子の最後の姿だったなんて。なんとも切ない話である。二児を出産した彼女は、この端午の節句の半年後に亡くなる。

「あなただけが私を分かってくれてるのよね」なんて和歌を送った相手である清少納言が、定子を看取っていないはずはないだろうと私は推測する。しかし実際はどうだったのだろう。少なくとも『枕草子』で、定子との別れは描かれていない。描けなかったのだろうな、と思う。

清少納言はあくまで、藤原定子の素敵なエピソードしか描きたくなかったのだろう。宮中の美しい、明るい風景を描く。そして、『枕草子』を読んだ人が藤原定子を好きになってしまうような文章を綴る。それが作家・清少納言の自らに課した使命だったのではないか、と。

『枕草子』に綴られた、平安時代の素敵な風景、儀式、季節の移り変わり、そして機知にとんだ会話たち。それらの中心に常にいたのは、藤原定子だった。

『枕草子』というタイトルの由来

考えてみれば、『枕草子』というタイトルは、そもそも定子との会話に由来する。

 

〈現代語訳〉

定子様がお兄様からまとまった紙をいただいていた時、

「何を書こうかしら。帝は、史記という書物をお書きになられているんですって」

とおっしゃっていた。

だから私は言った。

「私だったら、紙をいただいて、枕にしたいですねえ」

それを聞いた定子様は、

「なら、あなたにあげるわ、この紙」

と、私に紙束を手渡してくださったのだ。

〈原文〉

宮の御前に、内の大臣の奉りたまへりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には史記といふ文をなむ、書かせたまへる」などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、「さは得てよ」とて給はせたりしを。

(原文は『新版 枕草子 現代語訳付き』角川文庫による。現代語訳は筆者作成)

 

——これが由来だと『枕草子』の跋文(あとがき)は記載している。

跋文には「故郷に帰ったときに中宮様を恋しく思いながら、宮中での思い出をつらつらと書き始めた」と記している。

そう、『枕草子』とは、藤原定子からもらった紙で、彼女との思い出を綴った作品だった。

千年後も私たちの心をつかんで話さない名文がたくさんあるけれど、それでも私はいまだに「さは得てよ」という定子の言葉が、この作品を生み出したということそのものに、切なくそして胸がいっぱいになってしまう。

清少納言を祀る神社

ちなみに京都の車折(くるまざき)神社には、清少納言が祀られている。「芸能神社」も境内にあるらしいが、藤原定子のことをここまで有名にそして素敵にプロデュースした清少納言のことを考えると、なんだか御利益がありそうな気がしてくるから不思議である。

清少納言の見た景色を、千年経っても京都で見ることができる。『枕草子』の背景を知ってみると、春はあけぼの、と呟くとき、私たちは清少納言が藤原定子を想う気持ちをなんだか再現しているような心地になってくるのである。

文=三宅香帆 写真=PhotoAC

紫式部と並び、平安時代の優れた書き手として知られるのが、清少納言。言わずと知れた『枕草子』の作者である。『枕草子』といえば、「春はあけぼの」といったような、季節に関する描写を思い出す人もいるだろう。が、実は清少納言が自分の人間関係や宮中でのエピソードを綴っている部分もたくさんあるのだ。そのなかのひとつに、大河ドラマ『光る君へ』にも登場する藤原公任(きんとう)とのエピソードがある。今回はそれを紹介したい。
大河ドラマ『光る君へ』で、その存在感で視聴者にとって大きな印象を残しているのが、毎熊克哉さん演じる謎の男・直秀である。史実には残っていない、散楽一座のひとりである彼は、藤原家に盗賊に入るなど、謎の多い男になっている。それでいて主人公まひろのサポートをしてくれる彼は、『光る君へ』の物語に欠かせない存在となりつつある。そんな彼が、第八話「招かれざる者」で語ったのが、「都の外でも暮らしたことがある」経験。いまは京で散楽を演じている彼は、「丹後や播磨、筑紫」で暮らしていた、というのだ。まひろは自分が見たことのない海を、彼が見たことがあると聞いて、自分も見てみたい、と語る。