「私のこと、好き?」
たとえばある日、まだ定子のもとで働き始めたばかりだった清少納言は、定子からなんとこんなことを尋ねられる。
〈意訳〉
「ねえ。私のこと、好き?」
私はびっくりして、「そんなっ、嫌いなわけがないじゃないですか!」と言いかけたその時。
台所のほうからものすごく大きな「はくしょん!」というくしゃみの音が聞こえてきた。
中宮定子様はぷいっと顔をそむけた。「もういいわ、今あなた嘘ついたんでしょ」と、奥に引っ込んでいってしまった。
そ、そんなわけがないのに! くしゃみのほうが嘘に決まってる! なんでくしゃみくらい我慢しないのよ、誰がくしゃみしたのよバカ!
私は悲しいやら悔しいやらで、くしゃみしたやつに怒りをぶつけたかったけれど。さすがに新参者が抗議はできなかった。
〈原文〉
(宮)「我をば思ふや」と問はせたまふ御答へに、(清少)「いかがは」と啓するにあはせて、台盤所の方に、はなをいと高うひたれば、(宮)「あな心憂。そら言を言ふなりけり。よしよし」とて、奥へ入らせたまひぬ。いかでかそら言にはあらむ、よろしうだに思ひきこえさすべきことかは、あさましう、はなこそそら言はしけれ、と思ふ。さても、誰か、かくにくきわざはしつらむ、おほかた心づきなしとおぼゆれば、さるをりも、おしひしぎつつあるものを、まいていみじうにくしと思へど、まだうひうひしければ、ともかくもえ啓し返さで。
(原文・注は石田穣二『枕草子 上・下巻』角川ソフィア文庫による、訳は筆者意訳)
当時、くしゃみは縁起の悪いものとされていた。定子は清少納言が返事をした時にくしゃみが聞こえてきたのは、彼女が嘘をついているからだ(それを神様が教えてくれた)、という受け取り方をしたのである。
「あのくしゃみめ!」
清少納言は「なんでこんなタイミングでくしゃみしたやつがいるの、バカ!」と大変悔しがっていたのだが、この話には後日談がある。
〈意訳〉
私の部屋に中宮様から手紙が届いた。
あなたの嘘をあばく神様がいなければ、あなたが嘘つきだなんて分からなかった
(いかにしていかに知らましいつはりを空にただすの神なかりせば)
わーん、中宮様の和歌は素敵だけど、本当にあのくしゃみはなんだったのよお!
悲しくて憎たらしい気持ちを抱えつつ、私は中宮様に返歌を書いた。
「花」ならば薄い色も濃い色もあるものですが、くしゃみは「鼻」によるものです。花のようなあなたへの想いが、薄いなんて、ありえないですわ! 誤解された私は、とっても悲しいです!
(薄さ濃さそれにもよらぬ鼻ゆえに憂き身のほどを見るぞわびしき)
って和歌で弁明しても、やっぱり悲しいものは悲しい。気持ちがずっと晴れない。本当に、あのくしゃみめ!
〈原文〉
明けぬれば下りたるすなはち、浅緑なる薄様に艶なる文を、「これ」とて来たる、開けて見れば、
(宮)「いかにしていかに知らまし偽りを空に糺の神なかりせばとなむ、御けしきは」とあるに、めでたくもくちをしうも思ひ乱るるにも、なほ昨夜の人ぞ、ねたく、にくままほしき。 (清少)「薄さ濃さそれにもよらぬはなゆゑに憂き身のほどを見るぞわびしき なほ、こればかり啓し直させたまへ。式の神もおのづから。いとかしこし」とて、まゐらせて後にも、うたてをりしも、などてさはありけむと、いと嘆かし。
(原文・注は石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫)による、訳は筆者意訳)
少女漫画なのか?と思いたくなる藤原定子と清少納言のエピソードであるが、本当に『枕草子』に書いてあるので驚きだ。
「私のこと、好き?」と聞いてきたのに、くしゃみが聞こえたからと拗(す)ね、わざわざそのことを手紙で追い打ちをかける姫・藤原定子。一方、「ウソじゃないですよおおお」と釈明したのに、やっぱり和歌を送っただけでは気持ちが晴れない女房・清少納言。相思相愛が過ぎる。
千年後の私たちにまで伝わった、ふたりの結びつき
清少納言は、もともとは京都のお金持ち主婦(貴族の妻、一児の母)であった。だが夫とは折り合いが悪かったらしく、夫と別れた後に今をときめく中宮定子の女房として抜擢される。なぜ清少納言が選ばれたのかといえば、藤原定子の母・高階貴子の人選によるものだったと言われている。
というのも高階貴子は、もともと宮仕えしていて、漢詩も和歌も完璧な女性だった。教養ある女性として有名で、円融天皇の内裏で管理職をしていたところ、藤原道隆の妻になるに至ったのだ。そんなわけで、高階貴子は自分の教養を定子に伝え、そして定子が中宮になった暁には「教養深い女性を自分の娘の女房にしたい」と考えたらしい。そこで抜擢されたのが、漢詩の教養ある清少納言だった。清少納言もまた、祖父や父親が著名な歌人という家を出自に持っていたのだ。
そういう意味で、藤原定子は清少納言に対し、漢詩にしても和歌にしても「同じレベルで話せる」という安心感があったのではないだろうか。
そして清少納言自身も、藤原定子のことを心から慕っていたらしい。
たとえば初めて宮中に出仕した日、清少納言は藤原定子を見て「こんなきれいな人がこの世にいるのか」とぽうっとなったと綴っている。そして次の日、藤原定子のところへ出仕すると、定子と定子の兄(伊周)がいた。兄妹は、和歌などをまじえながら風流に語っている。その様子を見て清少納言は「物語や絵のなかで見た世界だわ。夢のなかみたいな光景が現実にあるなんて」と感嘆するのだった。
藤原定子は「こんなふうに漢詩や物語の話ができる人がいるなんて」と思っていただろうし、清少納言もまた「こんなふうに漢詩や物語の世界のなかの人がこの世にいるなんて」と思っていた——。ふたりの結びつきは、『枕草子』のなかに綴られ、そして千年後の私たちにまで伝わっている。
ちなみに清少納言の生家は、現・今熊野観音寺のあたり。京都御所からは離れていることがよくわかるのではないだろうか。東山に生まれた少女が、大人になって京都御所のあたりで働くようになる。その軌跡が、『枕草子』にはしっかりと刻まれているのだ。
文=三宅香帆 写真=PhotoAC
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