当初から順風満帆とはいかず……。有名店『天冨久』の歴史の裏に隠された、店主の知られざる葛藤と覚悟

天冨久の外観。大きな看板が目立つので、辿り着くのに迷うことはないだろう。
天冨久の外観。大きな看板が目立つので、辿り着くのに迷うことはないだろう。

JR大森駅から徒歩約5分。アーケードを抜けたすぐ先に店を構えるのが、1957(昭和32)年創業の老舗江戸前天ぷら屋『天冨久』だ。

店内。1階は8席のカウンター席、2階は14席のテーブル席。
店内。1階は8席のカウンター席、2階は14席のテーブル席。

ランチタイムには多くの人が行列を作る、大森の有名店を長年切り盛りしているのは店主の村口さん。聞くと、村口さんはこれまでこの道一筋で『天冨久』の厨房に立ち続けているらしい。

先代が「天久」という店で修業しており、富山出身であったことから、『天冨久』という店名がついたそう。「冨」は字画の関係で、より縁起が良い漢字をチョイスしたとのこと。
先代が「天久」という店で修業しており、富山出身であったことから、『天冨久』という店名がついたそう。「冨」は字画の関係で、より縁起が良い漢字をチョイスしたとのこと。

「自分がまだ20代半ばで先代に先立たれた時は、何もかもできないことだらけで大変だった。お客さんとのやりとりも、お客さんの気持ちもわからない。色んな人に迷惑かけたけど、当時は常連さんに随分助けられたなあ」

懐かしい表情で語る村口さんだが、その後も村口さんは大きな試練に直面することとなる。なんと、2009年に店が火事に遭ってしまったのだ。

「もう店は続けられないかもしれないと思ったけど、近隣の皆さんが助けてくれたおかげで、今もこうして店を続けられてる。“頑張って”とか“負けないで”の声が、本当にうれしかった」

実は火事に遭うまで、『天冨久』の営業は夜のみだったという。

「今まで以上に頑張らなきゃいけない、と思って、一念発起してランチ営業も始めたの。だから今こうしてランチタイムに多くのお客さんに足を運んでもらえているのは、当時助けてくれた皆さんのおかげ」

今でこそ大森の大人気ランチスポットとなった『天冨久』だが、その人気の裏側には、店主のかつての葛藤や覚悟が隠されていたようだ。

江戸前天ぷらの本気を見よ!ボリュームも迫力も満点の穴子入り天丼

江戸前活〆穴子入り天丼2000円。天丼のほか、味噌汁と漬物3種がついてくる。圧巻のボリューム!
江戸前活〆穴子入り天丼2000円。天丼のほか、味噌汁と漬物3種がついてくる。圧巻のボリューム!

ランチタイムは天丼メニューのみを提供している『天冨久』だが、今回は、店主おすすめの江戸前活〆穴子入り天丼2000円を注文した。

ランチメニューの天丼4種。季節によっては、旬の食材を使った期間限定天丼も提供している。
ランチメニューの天丼4種。季節によっては、旬の食材を使った期間限定天丼も提供している。

注文後、村口さんが真剣な眼差しで手際良く次々と天ぷらを揚げていく様子には、目を見張るものがあった。店内にほのかに香るごま油の香りが、食欲を刺激する。

手慣れた手つきで天ぷらを揚げていく村口さん。からからと小気味の良い音を立てて揚げられていく天ぷらを見て、ワクワクが止まらない。
手慣れた手つきで天ぷらを揚げていく村口さん。からからと小気味の良い音を立てて揚げられていく天ぷらを見て、ワクワクが止まらない。

揚げたての天ぷらがこんもり乗った天丼を前に、いざ実食!

天ぷらのラインナップは、穴子、エビ2尾、鶏天、海苔、トマト、ピーマン、茄子、卵。
天ぷらのラインナップは、穴子、エビ2尾、鶏天、海苔、トマト、ピーマン、茄子、卵。

まずはちょっと珍しい、トマトの天ぷらから。タレではなく塩で味が調和されたトマトの天ぷらは、外はサクッ、中はジュワッの新感覚食感。これはクセになる。トマト好きには堪らない。

大振りの海老の天ぷら、2尾もいただいていいのでしょうか……と思わずかしこまってしまう。身がぷりっぷり。
大振りの海老の天ぷら、2尾もいただいていいのでしょうか……と思わずかしこまってしまう。身がぷりっぷり。

大迫力の海老の天ぷらは、箸で持った時のずっしりとした重みがすごい。一口食べると、海老の弾力がダイレクトに伝わってくる。文句なしの高貴な味わい。

海老よりもさらに大迫力の穴子。さすが主役!存在感が違う。
海老よりもさらに大迫力の穴子。さすが主役!存在感が違う。

そしていよいよお目当ての穴子。活〆の穴子は、やはり口に入れた瞬間の新鮮さが比にならない。いうまでもなく最高だ。ちょこんと乗せられた柚子皮が、いい仕事をしている。濃厚な味わいの穴子を、柚子の爽やかな香りが程良いバランスに整えてくれるのだ。

半熟卵の天ぷら。何をどうしたらこんなに丁度良い半熟状態に揚がるのか、素人にはさっぱり……。
半熟卵の天ぷら。何をどうしたらこんなに丁度良い半熟状態に揚がるのか、素人にはさっぱり……。

シメには最後にとっておいた卵を少し崩して、残りのご飯を卵かけご飯風にしていただいてみた。コク深い濃厚な味わいに、つい箸が進む。個性豊かな天ぷらのおかげで、このボリュームなのに、最後まで飽きることなくぺろりと完食。男性でも満足できそうな食べ応えだ。

ワカメと三つ葉のシンプルな味噌汁も、出汁がしっかり効いて風味豊か。天ぷらのお口直しにぴったり。
ワカメと三つ葉のシンプルな味噌汁も、出汁がしっかり効いて風味豊か。天ぷらのお口直しにぴったり。

「当初のランチメニューは、天丼と海老天丼だけ。でも、やっぱりたくさんの人に江戸前の穴子を食べてもらいたいと思って。その結果今のメニューになって、今ではうちの穴子をリピートしてくれるお客さんも増えてきたかな」

村口さんの話を聞きながら、確かにあの穴子天からは、村口さんの職人としての本気が伝わってきたなと感じた。長年この道一筋でやってきた店主が揚げる活〆の穴子天は、言葉にするのが難しいほど旨いのだ。うむ、これは毎日行列ができるのも、納得。

油、食材、米、全てにこだわりが詰め込まれた至極の一杯!名店の味を心ゆくまで堪能しよう

村口さんの粋なサービスで、目の前で穴子を捌く様子を見せてもらった。もはや芸術!
村口さんの粋なサービスで、目の前で穴子を捌く様子を見せてもらった。もはや芸術!

「揚げ油は菜種油とごま油のブレンド。割合は季節によって変えていて、夏は軽めの口当たりになるようにごま油を控えめに、逆に冬はごま油を重めにして天ぷらが濃厚に揚がるようにしてる」

四季に合わせて油の配合を変えるそのこだわりは、まさに職人芸だ。さらに、客に提供するネタは絶対に店で捌いたものしか使わないそうだ。

「海老にしろ穴子にしろ、この厨房で捌いたものじゃないとお客さんに喜んでもらえる味は出せない。そこだけは譲れないかな」

カウンターの生簀にいる車海老。そのままでも揚げても、さぞおいしいのだろう……と妄想が膨らむ。
カウンターの生簀にいる車海老。そのままでも揚げても、さぞおいしいのだろう……と妄想が膨らむ。

さらに天丼に使う米も、コシヒカリとひとめぼれを独自にブレンドしているとのこと。コシヒカリの粘り気と、ひとめぼれのツヤが丁度良くバランスを取れる配合にすることで、天丼に合う白米が炊けるそうだ。

「最近では外国人観光客のお客さんがかなり増えてきたから、いずれは別店舗でランチ専門の天ぷら屋もオープンできたらな、なんて考えてるよ。今はどうしてもランチ時に行列ができちゃうけど、予約制は性に合わないからやらない。いつも並んでくれるお客さんに悪いからね」と語る村口さん。

「この店を一言で表すなら、”一期一会”かな。目の前にいるお客さんには、常に誠心誠意向き合ってる。お客さんにも同じように、この店の味とここにいる時間を心から堪能して欲しい」

チーム『天冨久』!取材中も抜群のチームワークで、和気藹々と対応してくれた。前列中央に立つのが、村口さんの奥様。
チーム『天冨久』!取材中も抜群のチームワークで、和気藹々と対応してくれた。前列中央に立つのが、村口さんの奥様。

今回の取材を通して、料理に対するこだわりもさることながら、村口さんがいかに『天冨久』という空間にいる全ての人を大切にしようとしているか、その強い心意気がひしひしと伝わってきた。

少しばかり列に並ぶかもしれないが、ランチ時に大森に立ち寄った際は、ぜひ老舗江戸前天ぷら屋『天冨久』に立ち寄ってみてほしい。村口さんが揚げる絶品天ぷらを一口でも味わえば、あの待ち時間でさえこの瞬間のためのスパイスだったのだと思えるはずだ。

住所:東京都大田区大森北1-26-2/営業時間:11:00〜14:00、18:00~23:00/定休日:月/アクセス:JR京浜東北線大森駅より徒歩約5分

取材・文・撮影=杉井亜希