池袋に“モンパルナス”が生まれたのはなぜか?

「さくらが丘パルテノン」のアトリエの窓から絵を出そうとしている様子。2軒続きの長屋になっている。(アトリエ村外観 1948年撮影 榑松正利氏提供)

池袋モンパルナスの最盛期は1930〜40年代前半とされる。この短い間に池袋界隈には、のちの日本の美術と文化に影響を与えた芸術家たちが数多く引き寄せられ才能を開花させた。先の小熊に麻生、現在も根強い人気を誇る靉光(あいみつ)や松本竣介、日本のシュルレアリスムの牽引者・福沢一郎、瀧口修造、寺田政明。『原爆の図』の丸木位里・俊夫妻。“日本のゴッホ”長谷川利行も界隈にしばしば出没。近所には、彼らから尊敬されていた熊谷守一もいた。なぜこんな文化が池袋に花開いたのだろうか。

「それは、都市化の一つの現象だろうと考えています」と、『豊島区立郷土資料館』学芸員の秋山伸一さんは言う。一番のきっかけは明治36年(1903)の池袋駅開業による日本鉄道豊島線の開通だった。これによって池袋から田端経由で上野に行けるようになったため、上野の東京藝術大学の前身・東京美術学校(美校)の学生や周辺の芸術家たちが、高台で家賃の高い上野・田端から田舎で家賃の安い池袋に移動していった。

『豊島区立郷土資料館』に展示されている10分の1スケールのアトリエ付き住宅の模型。
住所:豊島区西池袋2-37-4 としま産業振興プラザ(IKE・Biz)7F /営業時間:9:00~16:30/定休日:月・祝・第3日/アクセス:JR・私鉄・地下鉄池袋駅から徒歩6分

こうして、芸術家たちが集まる下地ができたところに、昭和3年(1928)に地主の奈良慶が、絵が好きな孫のために1軒のアトリエを建てた。これがのちに「アトリエ村」ができるきっかけになった。このアトリエには美校の生徒たちなどが集まり始めた。奈良慶は、彼らのために次々とアトリエ付き貸家を建てていき、これが現・要町1丁目の「すずめが丘アトリエ村」となった。やがて商売になりそうだと思った借地人や地主が同じような住居兼アトリエを建て始めた。長崎2丁目の「さくらが丘パルテノン」、千早2丁目の「つつじが丘アトリエ村」、豊島区との区界に近い板橋区南町には「みどりが丘アトリエ村」「ひかりが丘アトリエ村」ができ、5つのアトリエ村が出来上がった。

宇佐美承のノンフィクション『池袋モンパルナス大正デモクラシーの画家たち』によれば、これらは15畳ほどの板敷のアトリエに三畳か四畳半の畳部屋、小さな流し台がついて、家賃は15円前後。現代の価格にして3万前後(※2000倍で計算)、当時のサラリーマンの月給は約100円=20万とすると、確かにお手頃だ。最盛期には約1000人もの芸術家たちが暮らしていたと言われている。

長谷川が靉光の下宿に来たときに、わずか30分程度で書き上げたという逸話をもつ作品。 (長谷川利行 《靉光像》 1928年 油彩、カンヴァス 板橋区立美術館蔵〈寄託作品〉)

池袋モンパルナスの画家たちはどんな暮らしをしていたのか。もちろん、いろいろな芸術家がいるのだが、目立っていたのは小熊秀雄と長谷川利行という二人の天才だ。小熊はイケメンで女ったらし。女性を次々に渡り歩き、あろうことか奥さんのいる家に連れてきていたというから信じられない。長谷川利行はアル中で、金がなかったから、たばこの空箱に絵を描いて飲み代がわりとしていた。それでも池袋モンパルナスの芸術家たちは彼らの才能に一目置いていたそうだ。一方で、物静かな靉光と、病で聴力を失っていた松本竣介も、麻生らを交えて熱っぽく芸術を語り合っていた。

昭和11年(1936)には麻生や寺田が「エコル・ド・東京」を設立。「池袋美術家クラブ」も設立され、音楽喫茶「セルパン」など街を会場に展示を行った。『板橋区立美術館』の弘中智子さんは、「欧州を真似るだけではなく、どうやって自分たちらしい表現をするのかを日々考えていたことが、日記などからもうかがえます」と言う。

池袋からアトリエ村に帰る時の近道として通り抜けていた立教大学。 (小熊秀雄 《夕陽の立教大学》 1935年 油彩、カンヴァス 豊島区蔵)
アトリエ村のスケッチ。 (小熊秀雄 《長崎アトリエ村》 1930年代 インク、紙 豊島区蔵)
小熊は旭太郎名義で『火星探険』の原作も手がけた。 (大城のぼる 画・旭 太郎 作 『火星探険』〈2005年、小学館クリエイティブ ※復刻版〉)

表現の自由か逮捕か。抑圧の時代へ

1930年~40年代前半は、日本が大正デモクラシーから軍国主義に一直線に向かっていく日々でもあった。大正14年(1925)、治安維持法が交付され、弾圧への下地ができた。昭和3年(1928)3月15日、3・15事件勃発。共産党員を一斉弾圧。昭和7年(1932)、犬養毅暗殺。同年初秋までに、美校内の左翼思想をもつ学生が30人ほど逮捕・連行され、拷問を受けたりしたうえで、学校の処分を受けた。

そして昭和16年(1941)、ついに「美術文化協会」のリーダー福沢一郎と瀧口修造が逮捕。だが、美術文化協会はシュルレアリスムの画家集団で、政治的な思想はない。弘中さんに理由を聞いてみると、「シュルレアリスムの創始者、アンドレ・ブルトンがコミュニストになったということで、シュルレアリスムの紹介者である瀧口や福沢も疑われたと言われています」。

この事件を受け、以降の美術文化協会の展覧会は自己規制を行い、国策に沿う絵を発表するようになった。そんななか、靉光、松本竣介、麻生三郎らは「新人画会」を発足し戦争色のない展覧会を開いた。「戦後すぐは戦争に反抗した唯一のグループと言われましたが、実際は、画家が絵を描いて発表するという当たり前のことをやろうという運動だったのだろうと思います」と弘中さん。

1943年に「新人画会」を結成したのちに麻生が描いた自宅兼アトリエの様子。(麻生三郎 《長崎町のアトリエ》 1944年 油彩、板豊島区蔵)

「池袋モンパルナス=反戦という図式で取材にくる人もよくいるのですが、実際はそう単純なものでもないんです。そう伝えると、取材が無くなったりすることもあるんですが(笑)」というのは、豊島区文化商工部文化デザイン課ミュージアム開設準備学芸グループの小林未央子さん。じつは、美術雑誌『みづゑ』で軍人に物申した松本竣介ですら戦意高揚画を描いているのだ。画材も配給制になり、国策に沿わなければ絵など書き続けられなかった。

「(前略)私は残念ながら順応という一番楽な道を歩いた(後略)」。これは、「戦争画を積極的に残した」と批判された画家・小川原脩の展覧会の図録の言葉だが、宇佐美承の『池袋モンパルナス』には、彼の凄(すさ)まじい苦悩が記録されている。小林さんは最後に言った。

「どんな立場だろうと、どんな絵だろうと描きたかったし、描くしか生きるすべがなかったのだと思います」

戦争によって解散したが1951年に再建した「池袋美術研究所」(池袋美術家クラブ主催)の研究員募集ポスター。指導者には熊谷守一の名も。 (「池袋美術家クラブ ポスター」資料 板橋区立美術館蔵)

1945年4月15日。池袋にもついに約350機のB29が襲来した。現在の山手通りから東側は立教大学を残して焼き払われたが、幸い、アトリエ村は一部だけの被害で済んだ。しかし芸術家たちは次々と去っていき、一旦、アトリエ村の灯は消えた。

大正末期〜昭和初期の池袋には、有象無象の徒手空拳の芸術家がたむろしていた。知っているようで知らない、彼らのこと、その時代を追いかけた。

 

取材・文=鈴木紗耶香 撮影=内田年泰、オカダタカオ
『散歩の達人』2020年5月号より

主要参考文献=『池袋モンパルナス 大正デモクラシーの画家たち』(宇佐美承 著/集英社)、『池袋モンパルナス展 ようこそ、アトリエ村へ!』(弘中智子・高木佳子 編/板橋区立美術館)、『東京⇆沖縄池袋モンパルナスとニシムイ美術村』(板橋区立美術館・共同通信社文化事業室 編/共同通信社)、『アトリエのときへ――10の小宇宙』(小林未央子 編/豊島区)、『池袋モンパルナス関連年表』(市立小樽文學館 編)、『「月給100円サラリーマン」の時代 戦前日本の〈普通〉の生活』(岩瀬彰 著/筑摩書房)、『定』(小村久恵 著/小村氷室 小村定明)、『目白文化村』(野田正穂・中島明子編/日本経済評論社)