一分の隙なくこだわりが詰まったグラタン
パングラタンが運ばれてくると、思わず「おおっ!」と歓声を上げてしまった。大きな賽の目に切られたパンがこんがりと焼け、そのまわりでベシャメルソースがぐつぐつと音を立てている。
ザクっと音を立ててパンにかぶりつけば、こんがり焼けたチーズの香りが鼻腔を抜ける。かと思えば、その下のパンにはソースが染みこんでいてトロトロ。ブロッコリーやスモークが効いたベーコンもたっぷりソースにからめれば、食べ進める手が止まらない。
「ベシャメルソースは大量の玉ねぎを煮込んで甘みを引き出しています。味がしっかりしたソースなので、それに負けないようにベーコンは自家製です」と教えてくれたのは、店主の谷貝英之さんだ。
これがオープン当初からの看板メニューだというが、なぜ「パングラタン」なのだろう?
「長年コックとして働いていた妻が、独学でパンを焼くようになったので、それを売りにしてみてはどうかと考えたんです」と谷貝さん。はじめはクロックムッシュも候補に挙がったというが、グラタンにすることで具材のバリエーションが出しやすい。それにしても、自家製パンをグラタンでいただけるとは、なんて贅沢な一皿なのか!
また、食後にいただいた抹茶ラテは、オープン当初からではなく途中からメニューに加わったもの。コクがあって香りが良く、彩りも鮮やかなこの抹茶は、狭山茶のルーツとされている川越産。販売開始時、工場長が最初に提案しに来たのが『つむぐカフェ』だったそうで、妻の茜さんの出身地である狭山のお茶だったことに縁を感じ、使用を決めたという。「使い始めたころは、この抹茶を出していたのは東京でうちだけだったと思います」。
パンやベーコンが自家製というのも驚いたが、このお茶受けのクッキーも手作り。店のメニューのなかで手を加えてないのは、ビールとりんごジュースくらいだというから恐れ入る。
古きよき下町の風景に魅せられて
『つむぐカフェ』がオープンしたのは2012年10月のこと。カフェ巡りが好きだった谷貝さん夫妻は「将来カフェを開けたらいいね」と漠然と話していたそうだが、2011年の東日本大震災の後に転職することになって一念発起した。
「この場所を選んだ決め手は、道端で子供が近所のおじさんとキャッチボールをしていたことでした。こんな素敵な光景がまだあるのか、ってすごく驚いたんです」
もともと街歩きが趣味で谷根千を気に入り、このエリアで物件を探していたという谷貝さん。港区出身で町工場の多いエリアで育ったこともあり、それと似た“東京の原風景”に感銘を受け、この千駄木の路地に店を開くことを決めた。
前職でのマーケティングやプロモーションの経験も活かし開店準備を進めるなかで、店のコンセプトとして2つの軸を作ろうと考えたという。ひとつは、看板メニューのパングラタン。そしてもうひとつは、子供連れ大歓迎という点だ。
「当時住んでいた地域ではファミリーで気軽に行けるお店があまり多くなかったので、自分たちが子供を連れて行きたいと思える場所にしたいと考えました。それで、来ていただいた家族と子育ての話なんかもできたらいいなって」
店内は全体的に椅子やテーブルの高さが低くて落ち着く雰囲気。小上がりの席もあり、ぬいぐるみやおもちゃも用意されているなど細やかな心遣いが光る。「いろんな方に使ってもらいたい」「友達の家に遊びに来たような感覚になってもらいたい」という思いがしっかりと形になった、あたたかな空間だ。
茜さんがキッチンに立ち、谷貝さんが接客とドリンクを担当。夫婦それぞれの強みを活かし、手作りのメニューで家のような安心感もある店は、当然のことながら常連も多い。
「何度も通ってもらえるようにというのは常に心がけていますね。コンフィチュールのドリンクも何種類かあるのですが、それがあることでドリンクだけでなくアイスに乗せたりデザートパングラタンにかけたりと色々なバリエーションを作れるので、選択肢が増えるんです」
パングラタンは定番のほか月替わりのものも全6種類。取材時は照り焼きチキン、翌月はサーモンとカボチャ……など、メニュー名を聞いただけでも食べてみたくてうずうずするようなラインナップだ。期間限定ドリンクも10種類以上あり、それを楽しみにして「来月はなんですか?」と聞かれることが多いというのも頷ける。
人々をつなぎ、縁を見守る糸車
「このあたりは、古いものは古いものとしてきちんと残っているけれど、アーティスティックな新しいものもあってそれらが共存している。不思議な街ですよね」と谷貝さん。
子連れで来てくれるのは、地元のママ友つながりでお店のことを知ったという人が多いという。ローカルかつアナログな口コミで広まっているというのが、なんとも谷根千エリアらしいエピソードだ。
また、小学生の時からママに連れられて来ていた子供が「今度就職するんです」と1人で来店してくれたことも。「人と人とのつながりやゆったり過ごす時間を“つむぐ”場所になれたら」という願いを込めた店名の通り、さまざまな縁を生み、見守っていることがわかる。
「コロナ前は、クッキーづくり体験や絵本の読み聞かせなどのワークショップを結構やっていたんです。今は毎月落語家さんが来て落語会をやっているんですが、子供が新しいことを体験できる機会を増やして行きたいですね」
人々をつなぎ、縁を見守る糸車は、今日も千駄木の路地でまわっている。
『つむぐカフェ』店舗詳細
取材・文・撮影=中村こより