ひとつ欠けたぐらい、と気にも留めていなかったが、どうやらそこから虫歯の速やかなる浸食がはじまり、気がつけば前歯の2本は差し歯となっていた。
今年(2023年)の春。その差し歯が取れた。経年劣化だと思っていたら、どうやら仮歯のままだったらしい。どうしよう。15年ぐらい仮歯で過ごしてしまったじゃないか。
家の近所にある最近できた新進気鋭の大きい歯医者さんへやってきた。若くてとてもやり手な先生と、かわいい歯科助手さんが手際よく診察してくれて、新しく前歯のブリッジを作ることになった。「耐久性とか見た目とかいろいろ考えたら」と親切に勧めてくれた新歯は合計で約30万。ミラノ風ドリア1000個分である。
しかし、それもやむなし。なぜなら前歯のない生活は、人生を破綻させる。どんなにおしゃれをしようが、会議で最高のプレゼンをしようが、前歯がない大人の社会的信用度は無だ。それをハヌケと蔑まれたこの数週間で痛感していたこともあり、まぁ、カードで払えばいいだろうと軽く承諾してしまった。ミラノ風ドリアを1個追加で頼むのに死ぬほど悩むのに、今考えればなんてあさはかだったのだろうか。
セラミック製の立派なブリッジができて、それを装着してもらい、新しい人生がはじまった。
さぁお会計だ。カードで払おうとしたら機械から「ダメー」みたいな音が鳴る。限度額を超えているらしい。真っ青になった。持ち合わせのお金もないのでどうすることもできない。いや、そもそも事前にもっと支払いの説明を……なんて弁明をしていると、「今日払ってもらわなければ困ります。さもなくば弁護士から連絡させます」
受付事務の20歳そこそこの若い女の子が、強い口調できっぱり言い切った。おびえたように。それでも気丈に。そのオレを見据える目は完全に「あっち側の人」を見る蔑みと恐怖を内包していた。
ショックだった。あんな娘ほどに年の離れた若い子を恐怖させてしまうなんて。「ごめんなさい。なんとかお金を作ります」。そう言い捨てて逃げるように病院を出る。家に帰ると「すみやかに歯を返して生涯健やかにハヌケですごせ」と追い返されたので、散歩の編集長に全力で金を無心するなど必死にお金をかき集めて渡しに行った。
「いやーあなたのためにがんばりましたよ。褒めてくださいよ」
少しでも彼女の恐怖心を解きたくて言ってしまった。火に油。キモいのおかわり。追いキモい。表情と感情を亡くした彼女から「ありがとうございます」なんて言葉は望むべくもなく、背中に浴びた「おだいじに」のトーンが明らかに違う意味に聞こえてしまった昼下がり。
この新しい歯で何を食べるか。うなぎしかないだろう。
絶滅危惧種のうなぎが何故こんなに安いのか
精をつけても行き場所がない。元気があってもなんにもできない。バカヤロー。しかし、うなぎは歯を丈夫にするカルシウムと、その吸収を促進するビタミンDが含まれた歯にいい食事である。
チェーンのうなぎといえば、牛丼屋が主流だったが、近年では『名代宇名とと』をはじめ、うなぎ専門チェーンが数多く台頭してきている。その中でも気になっていたのが『鰻の成瀬』だ。「うなぎを食べるって“幸せ”」と情感たっぷりに2022年横浜にオープン。“ホンモノの鰻を気軽にお腹なかいっぱい食べてほしい”と約1年経った現在は都内に19店、全国48店舗で『1店舗の売り上げ平均300万以上』なんてニュースも飛び交うほど、文字通りうなぎのぼりの注目店だ。
神保町店ののれんをくぐってみた。メニューはうな重。松(一匹)2600円、竹(3/4)2200円、梅(半分)1600円となるほどうなぎ屋の相場でいえば随分と安い。松を頼むとお重からはみ出さんばかりの肉厚なうなぎがやってくる。これにお吸い物と、タレの瓶にワサビとネギ。
ふっくらうなぎはさっぱりながらも食べ応え十分。なるほど。これは、正真正銘のうなぎである。
しかし、いまも絶滅危惧種と危ぶまれるうなぎがなぜこんなに安いのか。海外の養鰻場で育て、メニューを最低限に絞り、現金のみなどオペレーションをシステム化し、提供時間も削減、最先端の技術を導入して人件費やらなんやらを安く抑えたそうだが……難しいことはともかく、うなぎである。誰にでも等しくおいしい。あっち側にいってしまったおいらみたいなハヌケも、幸せを享受できる。
昼時になり、カウンターはあっという間に埋め尽くされた。あんまりリピーターが増えてしまうと、また日本海溝の方からメッセージがくるぞ。みんな前歯砕けてしまえ。
文=村瀬秀信
『散歩の達人』2023年12月号より