頼れる家臣を持たなかった秀吉。支えた利家と家康
これまで話して参った通り、徳川殿は織田家の同盟相手から本能寺の変の混乱の中、領土を拡大し日ノ本有数の大大名となって、秀吉に降(くだ)った後も秀吉に次ぐ権威として日ノ本において影響力を保ち続けた。
では儂、前田利家はいかにして家老筆頭格となったのか。
徳川殿には家柄も領土も遠く及ばぬ存在であった。
先にも話した賤ヶ岳の戦い、佐々攻めをへてののちに七十万石を超える大名となったは良いものの、官位も低く豊臣政権の中心になれうる立場ではなかったのじゃ。
と申すのも上杉家や毛利家といった大大名達は秀吉の下に降ったのちにもその勢力を大きく削られることはなく、外様といえども大きな発言権を有していたのじゃ。
これらの理由から有力家臣の立場にとどまっておったのじゃが、急激に立場を向上させる。
これにもいくつか理由があるのじゃが、大きな理由が秀吉の弟で参謀として家を支え続けた羽柴秀長の死であった。
秀長はその優秀なる頭脳で政を担っておったほか、天下人となりまさに殿上人となった秀吉に諫言(かんげん)をできる数少ない存在であった。
秀吉は低い身分からまさに神がかった勢いで出世をしたために、大名家にとって何よりも大切な屋台骨となる譜代の家臣団が存在しなかった。
これは古くからの優秀な家臣団に支えられた徳川殿とは対照的であるな。
秀吉にとっても唯一と言ってよい心からの信頼をおける存在であり、秀長を失うことはあまりにも痛手であったのじゃ。
秀長の亡き後、徳川・毛利・上杉・島津らの有力大名に対抗しうる豊臣家に忠誠を誓う勢力を育てることは急務であったが、加藤清正や福島正則は有望なれど歳が若く老練なる諸将を相手取るにはまだ未熟であった。
そこで大きな勢力に加えて戦や治世の経験があり、若き秀吉の家臣達を纏めうる存在として秀吉と古くからの付き合いであり、北陸の多くを治めておった儂が擁立されたわけじゃな!
先に申した通り、我らの時代は実力主義とはいえど朝廷より賜る官位が家格を示す上で実に重要な要素であった。
例えば秀長と徳川殿は1587年の同日に従二位権大納言の官位が与えられ、秀吉を支える両輪であることが世に示されておったりも致す。
故に儂も他の外様有力大名と渡り合う為、それにふさわしい官位を賜ることとなったのじゃ。
1594年に従三位権中納言に任ぜられて上杉景勝殿と毛利輝元殿の官位を超える。
この頃には秀吉のもと儂と徳川殿が協力して政を行う『二大老』の体制が整えられておって、中納言就任はそれを示す意味合いもあったのじゃ!
これより徳川殿と儂は二大派閥として対立しながらも共に政にて日ノ本を良くするべく協働することとなる。
秀吉の後継者として擁立されておった秀次が失脚した『秀次事件』により起きた混乱をはじめ、様々なことを徳川殿と頭を抱えながらも乗り越えて参った。
儂からすればまことに頼りになる御仁であった。
我ら二人の関係は円満であった(と儂は思っておる)のじゃが、他の大名たちはこの二大勢力が優勢であるのか、あるいはどちらに属するべきかと我らの知らぬところで考えておったようで、とある出来事を発端にそれが大きな問題に発展してしもうたのじゃ。
前田対徳川、幻の戦「水騒動」
冒頭に話した通り、秀吉は大規模な外征をするべく九州名護屋に町を含めた大規模な城を築く。
中心となる肥前名護屋城の周りには各大名の陣が築かれて現世でもその名残を感じられるようになっておる。
その中で我が前田家の陣と徳川家の陣はほど近く、我らは水場を共有しておった。
我らは大勢の兵を抱えており水や食料の確保に頭を悩ませておった為、この水場を巡って使番の者達で小競り合いが起こったのじゃ。
戦さ場で水場や食料を求めて小競り合いが起こるのはよくある話ではあったのじゃが、ただの小競り合いにとどまらなかった。前田家と徳川家がライバル関係にあったことも関係して互いに引くに引けなかったのであろうな。
ついには千を超える兵達がもみ合う騒動となり、一触即発の雰囲気が漂った。
然りながら、これで終わればまだ良かった。
この様子が名護屋に陣を構える他の大名に伝わってしもうたが為に、大名達がどちらに加勢するかでまた大事になってしもうたのじゃ。蒲生や浅野など前田家と繋がり深い者達は戦の準備を整えて使者を送ってくる始末、前田と徳川の筆頭論争に実践の場が与えられたかの如く皆が浮き足立っておった。
儂と徳川殿が騒動を収めるべく奔走した為にそれ以上の大事にはならず、結果としては儂も徳川殿と一線交えずに済んだ。じゃが、何か一つでも事が悪く運べば前田と徳川の戦が現実のものとなってしまったであろうな。
秀吉の死後に起きた次期天下人の争いも、儂は早く死んでしもうた。その為、徳川殿とは戦にはならなかったので、もし水騒動が戦まで発展していたらどちらが勝ったのかと現世でも議論の種になっておるそうじゃな。
儂としても大事にならず良かったと思う反面、少し力試しと参りたかった思いがないと言えば、まあ嘘になるじゃろうな。実際多くの大名家が儂の側に味方する姿勢を見せたことは、諌めながらもうれしく思うておった。
石高と官位では徳川殿に及ばぬが人望においては決して負けてはおらぬと、世に広まる良いきっかけであったとも言えよう!
終いに
さて、此度の戦国がたりはいかがであったか!ようやっと徳川殿と儂の話をすることが叶った!
『どうする家康』でもついに儂が登場したで儂の活躍も確と楽しみにしておくが良いぞ!
此度は豊臣家の中での最大勢力であった徳川殿とそれを牽制すべく擁立された儂の話であったが、
実はもう一人それを担えたであろう者がおった。
そのことについてはまた後に人物紹介の巻などで話していけたら良いと考えておる。
では此度の戦国がたりはこれにてしまい。
また会おう、さらばじゃ!!
文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)