北条家必勝の型、籠城

秀吉にとって最後の敵となった北条家。

すでに秀吉は関白の位にあったで、それに従わぬ北条家を賊(ぞく)として征伐(せいばつ)に参ったわけじゃ。

じゃが、天下人である秀吉にとっても北条家は簡単な相手ではなかった。

北条家の本拠、小田原城は日ノ本随一の堅城。城に興味がない現世の者にも名が知れておるのではなかろうか。

この小田原城は町を丸ごと城内に囲い込んだ総構えの城で、城内には農村や田畑もあったために単なる兵糧攻めでは効果が薄かったのじゃ。

現にこの城は上杉謙信や武田信玄から攻められてもびくともせず、あきらめて兵を引いたところを追撃するのが北条家の必勝の型であった。

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然りながら、兵糧攻めは秀吉が一番得意としておる戦法でもあった。三木の干殺しや鳥取城の飢(かつ)え殺しでは、領内の米を相場の何倍もする値段で買い付け、城下町の兵糧が減ったところを見計らって兵糧攻めをして迅速に落城させておる。

ほかにも備中高松城の水攻めでは梅雨を利用して城外にダムを作って高松城を孤立させるなど奇想天外なる発想で敵の心を挫く戦法を編み出してきた。

そんな秀吉が北条を相手に打った手は小田原城外に町を築くことであった!

相手が町を囲った城で長期戦を仕掛けてくるならばこちらも包囲する陣を町にしてしまえという魂胆である。

北条征伐に加わったおよそ二十万の兵が長期戦のために小田原城外に腰を据えたことで、城内の兵や民に動揺が走った。他にも山中に城を作り木を一気に伐採して一夜で城が出来たように見せたり、毎晩大規模な宴を催して財と兵糧に底がないことを示したりと豊臣政権の力を誇示したことで心が折れた北条家はついに降伏、戦国の関東を支配した北条家は滅びることとなった。

北陸軍総大将、前田利家!

さて、秀吉が未曾有の大軍を動かした北条征伐には日本中の諸将が集められた。

本隊には秀吉と徳川殿を中心に織田信雄様や毛利、丹羽、大友、細川等そうそうたる面々が揃っておる。石田三成殿や石川数正殿も加わっておったぞ!

水軍として長宗我部元親殿や九鬼嘉隆殿が配されたほか、もう一つ北方より南下して北条家を攻める別働隊が組織された。

その隊こそが儂、前田利家を総大将とした北陸軍であったのじゃ!

北陸軍を組織するのは儂に加えて上杉景勝殿や真田昌幸殿である。

上杉も真田も幾度となく北条と戦っておって、因縁の相手とついに雌雄を決することが叶うと士気は高かったのじゃ!

此度はその中でも我らが北陸軍の大きな戦であった鉢形城攻めと八王子城攻めを紹介いたそう!

自然の要害・鉢形城

先ず話すは鉢形城攻め。

この城は北条四代目当主、北条氏政殿の弟、氏邦(うじくに)殿が守る城で二つの川によって守られた自然の要害であった。

氏邦殿は北条家中の軍議にて、籠城ではなく地の利を生かした野戦にて迎え撃つことを主張したが受け入れられなかったことから、小田原を出て自らの城で敵を向かえ撃つこととしたそうじゃ。

鉢形城の堅牢さと氏邦殿の将としての器はやはり天晴れなもので、我ら北陸軍の三万の兵に対して三千の兵で一月も城を守り通した。

早く鉢形を落としたかった秀吉の命もあって、小田原から本田忠勝殿や鳥居元忠殿の援軍が参り、不利を悟った氏邦によって開城と降伏が果たされたのであるが、この時の戦ぶりに感服した儂は氏邦殿の助命を嘆願いたした。

これが叶って氏邦殿は儂の預かりになり、後に家臣として前田家を支えていく存在となる。

この鉢形城があるのは現世の埼玉県。百名城に選ばれておるほか、今は公園として整備されておって美しい自然と遺構を見ることが叶う故、関東に住んでおるものは足を運んでみると良いであろう。

激戦の地・八王子城と利家失脚の危機

二つ目の八王子城は激戦が繰り広げられた城である。

この城もなかなかの堅城でな、自然の要害であることに重ねて複雑な地形を生かした広大な城であったがために攻略法に難儀したのじゃ。

もちろん、地の利は敵方にあったために、我が隊は千人以上の兵を失うこととなった。

じゃが、そこで活躍したのがこれまでの北条攻めで降伏していた北条家臣たち。その者たちが我が隊に加わって八王子城攻略の案内をしたのじゃ。

これによって城は攻略、この城は開城された鉢形城とは対照的に殲滅戦となった。

この戦に勝利したのち、北陸軍はこの八王子城にて陣を張ることとなるのじゃが、その中で突如儂は秀吉から謹慎を命じられる。

何故秀吉が儂に謹慎を命じたのかはよくわからぬ。

儂はただの癇癪じゃと思うておるのじゃが考えられる理由として、儂が秀吉が出した北条の兵を殲滅すべしとの命令を軽んじて、多くの者を助命したことが原因ではないかと思うておる。秀吉は討ち取った敵の首級を小田原城外に並べて敵の士気を下げようとしておったらしいで、その思惑にそぐわなかったのであろうな。

じゃが、隊からは儂が外されただけで前田家が外されたわけではなく、別の戦に参陣しておった儂の息子の利長が招集されて隊を任されておるで、ただの癇癪であると思うておる。

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儂としては色々あった戦いであるが北条攻めの終盤には謹慎も解けてことなきを得た。儂と秀吉は主君と家臣となる以前より友としての間柄であったためにただの喧嘩と儂は思うておるが、実は前田利家失脚の危機が北条攻めの中ひっそりと起こっておったのじゃ。

終いに

此度の戦国がたりはいかがであったか!

儂の話を久方ぶりに記して参ったけれども、この頃の儂は領国にめったに帰ることが叶わぬほど秀吉政権を支えるがために忙しくしておった。

故に記したいことは山のようにある。

故に次回もこの戦国がたりでは儂の話をして参ろうと思う。

なかなか見えてこぬ徳川殿と儂との接点についても語って参ろうではないか!

そして何より大河に早く儂が出てこぬかなと首を長くしておるで皆も儂の登場を楽しみにしておるが良いぞ!

さて、此度の戦国がたりはこれにて終い。

また会おうさらばじゃ!!

文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)