危機なれど好機、神君伊賀越
本能寺の変が起こった時、徳川殿は京におられた。そして報せを聞くや否や急ぎ本領へと帰路に着くのじゃ。
これは勿論、光秀殿が兵を差し向け徳川殿の命を狙おうとしたからじゃ。
その時に選んだのが伊賀の山中を抜ける方法。然りながら当時の伊賀は織田家の領土であったものの、支配が行き届いているとは決して言えぬ状況であった。
伊賀は「伊賀もの」と呼ばれる自立意識の高い国衆が支配しており、既に明智の息がかかっておる可能性があったわけじゃ。そうでなくとも伊賀は信長様による苛烈な攻撃によって織田家に降伏しておるで、恨みある者たちが蜂起してもおかしくなかった。じゃが、そんな家康殿の状況を救ったのが伊賀の地に所縁がある服部半蔵殿。配下の伊賀ものと共に地の利を生かして無事に切り抜けられた。
対照的に徳川殿を疑い別行動をとった穴山梅雪殿は、明智の手勢に討ち取られておる。
以上が所謂『神君伊賀越』のあらましである。
が、やはり危険で遠回りな伊賀を進んだことに対して現世ではその真偽が問われておる。いくつかの軍記物や日記でも別の帰路が示されておって謎は深まるばかりである。真実は徳川殿のみが知るところであろうな!
そしてもう一つの謎が穴山梅雪殿の死。
この死があまりにも徳川殿にとって好都合であり、徳川殿が天下人となる一つの遠因ともなったのじゃ。
これよりは冒頭に話した徳川殿の謀略と梅雪殿の死について説明して参ろうではないか。
本能寺に便乗して領土簒奪
さて、この話をする前に覚えておいて欲しいことが一つある。
実は、武田家は滅亡しておらぬ!!
勝頼殿が一族もろとも討ち死にし、武田家は滅んでしまったかのように思える。否、実質的には武田家は滅んでおるのじゃが、滅んでおらぬというべき理屈と建前があったのじゃ。
『どうする家康』では詳しく描かれてはいなかったが、武田家を裏切った穴山梅雪殿は、自らが武田家の当主となることを裏切りの条件にしておった。つまりは勝頼殿は死んだが「武田家は梅雪殿を当主として存続しておる」という主張じゃ。
領土は甲斐の一部のみであったが、武田家の家臣団をまとめる存在として梅雪殿は大きな力を持っておった。
じゃがそんな梅雪殿が本能寺の変の後に討たれ武田家の家臣団は大きく乱れた。そこに手を差し伸べたのが徳川殿であったのじゃ。
徳川殿は依田信蕃(よだのぶしげ)殿をはじめとした武田家の家臣団を登用し、国境に城の普請を命じた。
しかしこれは本来梅雪殿の権限であり、築城したのも梅雪殿の領土であった。徳川殿は梅雪殿の死によって優秀なる武田の家臣と甲斐国の一部を丸々飲み込みことに成功したのじゃ。当然梅雪殿が生きておったら為し得ぬ所行で、棚からぼた餅であったと言えよう。
……誠に棚からぼた餅であったのかは疑わしいところであると儂は思うておるがな。
そして次に徳川殿は武田家臣団からの信頼を得る為に、甲斐の旧領を安堵いたした。
じゃが、この安堵した土地は織田家の重臣河尻秀隆殿の領国であった。梅雪の領土に触れるのもあつかましい限りであるが、この動きに関しては明らかなる越権行為である。
更には徳川殿が新たに築城したのは梅雪殿と秀隆殿の領土の境。甲斐侵攻への布石であることは明白であった。
家康殿の甲斐横領の動きを察知しておった秀隆殿は、軍事協力の申し出に来た徳川殿の使者を殺め、敵対の意志を示す。
然りながら、後手に回ってしまった秀隆殿に対し、徳川殿は甲斐の領民を扇動し一揆と反乱を起こす。
多勢に無勢の秀隆殿は追い込まれ本能寺の変からわずか十五日後に自刃して果てられたのじゃ。
秀隆殿は他の織田家の重臣たちが東国の支配を諦め、中央へと敗走していく中で甲斐に留まる気概を見せ、何度も一揆勢を蹴散らすなど最期まで織田家家臣の鑑であった。さすがは信長様に信頼され、信忠様の副将として東征を成し遂げられた方であった。
秀隆殿が亡くなり滝川一益殿をはじめとした織田家臣団が敗走、あるいは本能寺の仇討ちの為に領国を離れると、信濃、甲斐、上野は空白地帯となる。
それを狙うは織田家家臣であった徳川殿と同じく、織田家に臣従しておった北条家、そして起死回生を図る上杉家であった。信長様の死を徳川殿と北条家は好機と捉え独立したわけじゃな。因みに北条家も徳川殿同様に織田家臣に対して協調する素振りを見せながら裏で簒奪(さんだつ)を企んでおった。
この上杉、徳川、北条による空白地帯の奪い合いを『天正壬午の乱』とよび、様々な大戦が繰り広げられた。
徳川殿の大軍が真田の寡兵に大敗した上田城の戦いが有名であるな!
終いに
此度は徳川殿の最も黒き部分である、天正壬午の乱について紹介して参った。
織田家家臣からすれば、信長様が亡くなった途端にこのような動きを見せたことは誠に遺憾であれど戦国大名としては当たり前の動きであったと言えよう。
事実、この乱に勝利し東国の多くを手に入れたこと、そして優秀な武田の家臣を多く手に入れたことは大名としては中堅に過ぎなかった徳川殿の力を大いに高め、後に毛利や上杉と勝るとも劣らない大大名となる基盤となった。
特に武田家臣団は江戸時代になっても政の中心として江戸幕府を支え続け、天下泰平に大きく貢献しておる。
本能寺の変に隠れてあまり表に出てこぬ話であるが、ぜひとも知って欲しい一幕であった。
さて、時代が乱世と戻り激しくなっていく大河ドラマ『どうする家康』のこの後の展開が楽しみであるな!
この七月は毎週の更新であったこの戦国がたり。これよりも様々な歴史のおもしろき話を届けてまいる。
また次の戦国がたりで会おうではないか!
さらばじゃ!!
文=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)