1ヶ所目の陸軍用地はセンター街の先にある

センター街を突き進んだ先にある『ハンズ渋谷店』。その前方の交差点から向こうが東京陸軍刑務所の敷地であった。
センター街を突き進んだ先にある『ハンズ渋谷店』。その前方の交差点から向こうが東京陸軍刑務所の敷地であった。

まず1ヶ所目。渋谷駅からセンター街へ向かいます。人通りが戻ってきて、けっこう混雑していますね。宇田川町交番を左に見ながら(この宇田川交番のところにも宇田川が流れていて、今は暗渠になっている、ある意味廃なる案件)、『ハンズ渋谷店』へ着きます。つい最近まで「東急ハンズ」という名称だったDIY店です。

ハンズの目の前の丁字路はいかにも渋谷の裏という感じでゴチャっとしているのですが、丁字路の傍ら、駐輪場となったスペースのフェンス内側に、小さな墓石みたいなものがあります。これが陸軍用地の標石です。幅10数センチ角の石柱は、意外と大きく感じました。渋谷区の関連施設内に残されています。

神南小学校下交差点の脇に渋谷区の施設(渋谷区清掃事務所)と駐輪場があり、施設のフェンス内側をよく見ると標石がある。
神南小学校下交差点の脇に渋谷区の施設(渋谷区清掃事務所)と駐輪場があり、施設のフェンス内側をよく見ると標石がある。
陸軍用地と刻まれた標石が確認できる。文字もくっきり見えていて、保存状態は良好だ。戦前から全く同じ場所にあったかどうかは疑わしい。
陸軍用地と刻まれた標石が確認できる。文字もくっきり見えていて、保存状態は良好だ。戦前から全く同じ場所にあったかどうかは疑わしい。
よく陸軍までで埋もれているものもあるのだが、ここはちゃんと読める。フェンスから簡単に覗ける。
よく陸軍までで埋もれているものもあるのだが、ここはちゃんと読める。フェンスから簡単に覗ける。
このようにして駐輪場の脇にさりげなく存在するから、よく見ないと見落としてしまうかもしれない。
このようにして駐輪場の脇にさりげなく存在するから、よく見ないと見落としてしまうかもしれない。
標石は左側にある。目の前は『ハンズ渋谷店』で人通りも大変多い場所。こんなところに戦後78年間も佇んでいたのか。
標石は左側にある。目の前は『ハンズ渋谷店』で人通りも大変多い場所。こんなところに戦後78年間も佇んでいたのか。

しかし、センター街の外れでなぜに陸軍?

ミスマッチな出合いに戸惑います。ここは東京陸軍刑務所がありました。その境界です。実際にはこの標石は多少動かされたかもしれませんが、このすぐ先のNHK、渋谷区役所、神南小学校の敷地が東京陸軍刑務所でした。二・二六事件首謀者の刑が執り行われた場所でもあります。その慰霊碑が渋谷税務署前交差点の脇にひっそりとあり、傍らのレンガ塀は当時の擁壁か何かだといいます。

なお東京陸軍刑務所は戦後連合軍に接収され、在日米軍の家族用宿舎ワシントンハイツとなったのちに返還されました。

NHK放送センターのすぐ目の前、渋谷税務署の傍らに二・二六事件の慰霊碑が建立されている。レンガの壁は刑務所内の擁壁であったというが真偽のほどはいかに……。
NHK放送センターのすぐ目の前、渋谷税務署の傍らに二・二六事件の慰霊碑が建立されている。レンガの壁は刑務所内の擁壁であったというが真偽のほどはいかに……。

全く予期せぬ場所に存在している2ヶ所目の標石

2ヶ所目の標石はさらに意外な場所にあります。センター街から渋谷駅へと戻り、『渋谷109』前の交差点から吉牛の角を曲がって『渋谷マークシティ』側へと入ります。中華の兆楽、金券ショップ、パチンコ店を過ぎ、今はステーキ店となっている店の角を右に折れると、細い路地があります。デカデカとした広告の下、雑居ビルの入口に、何やら墓標のような石柱があります。「陸軍用地」ここにもありました。ちょうど『TOHOシネマズ渋谷』の裏手です。なおすぐ目の前に黄色い看板の施設がありますが、どういう施設かは察してください。人が居るときはあまりカメラを向けるのはやめたほうが……。ここは繁華街なので時間帯をよく見て、トラブル回避に努めましょう。

お姉さまの看板の下になにやら古ぼけた石柱がある。周囲に溶け込み当たり前すぎて分からなかった。撮影した背後が『渋谷マークシティ』側となる。
お姉さまの看板の下になにやら古ぼけた石柱がある。周囲に溶け込み当たり前すぎて分からなかった。撮影した背後が『渋谷マークシティ』側となる。
今度は90度違う方向から。標石は看板の下なのだが分かりづらい。
今度は90度違う方向から。標石は看板の下なのだが分かりづらい。

この場所に陸軍の標石があろうとは、約40年渋谷駅を利用している私ですら知りませんでした。たまたま調べ物をしていてヒットしたのです。『渋谷マークシティ』の脇は小さな飲食店、バー、大人な飲み屋さんが固まっているエリアです。いわば陸軍とは全く関係なさそうな駅裏です。そのような場所に陸軍が関係していたのは、戦前のはるか前、明治末期のことでした。

明治時代は、代々木練兵場、近衛歩兵旅団、騎兵第一連隊、近衛輜重(しちょう)兵大隊など、渋谷駅の周辺に軍の施設が次々と設置されていきました。軍施設が多くなると将兵の移動が多くなり、必然的に渋谷駅周辺も兵士の往来が増えます。

明治41(1908)年、陸軍は道玄坂の入口に渋谷憲兵分遣所を設置。兵士と一般人とのトラブル防止や往来の事故防止を監視する、憲兵の詰所を設けました。それまでは赤坂憲兵分遣所から憲兵が出動してきたが、人員が少なく距離もあって難儀していたとのことです。この経緯は、「陸軍省大日記、弐大日記、明治四十一年坤(こん)」の「分遣所設置ノ件」に記されており、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブで閲覧できます。

近づいてみると「陸軍用地」の文字がはっきりと。戦後ずっとこの場所にあって様々な人々の喜怒哀楽を見つめてきたことだろう。背後がすぐガールズバーなのも、繁華街に残された旧軍の施設を表している。
近づいてみると「陸軍用地」の文字がはっきりと。戦後ずっとこの場所にあって様々な人々の喜怒哀楽を見つめてきたことだろう。背後がすぐガールズバーなのも、繁華街に残された旧軍の施設を表している。

そして、この渋谷憲兵分遣所はどこにあったかというと、現在の『TOHOシネマズ渋谷』の敷地でした。当時の地形図には憲兵隊を表す「メ」のような印(実際はクロスしたサーベル)が記されており、道玄坂の入口に憲兵分遣所があったと分かります(ウェブサイト「今昔マップ」、首都圏1917〜1924年を参照)。

昭和に入ると渋谷憲兵分遣所は移転し、その跡地は映画館となりました。映画館はいくつか名称を変えて平成初期に建て替えられて「渋東シネタワー」となり、現在のTOHOシネマズになります。子供の頃からよく訪れた映画館が憲兵分遣所だったとは、この標石を調べていて初めて知ったのです。身近すぎて全然分からなかった。

標石は案の定というか、路上飲みの残骸が陳列していた。一般人には単なる石柱だが、観る人によっては遺跡級の発見である。陸軍の文字をどれだけの人が気付いたのだろうか……。
標石は案の定というか、路上飲みの残骸が陳列していた。一般人には単なる石柱だが、観る人によっては遺跡級の発見である。陸軍の文字をどれだけの人が気付いたのだろうか……。

この陸軍用地標石は、夜の時間帯になるとお店も次々と開店し、雑踏へと吸い込まれます。そのような環境で見学するのも、現代と過去を対比できて良いですし、店々のシャッターが降りた午前中にひっそりと標石が佇む姿を眺めるのも良いでしょう。

黒いビルが『TOHOシネマズ渋谷』。平成時代は「渋東シネタワー」で、その前は暗くてぼろい映画館だったとうっすら記憶している。ここが渋谷憲兵分遣所だったとは。
黒いビルが『TOHOシネマズ渋谷』。平成時代は「渋東シネタワー」で、その前は暗くてぼろい映画館だったとうっすら記憶している。ここが渋谷憲兵分遣所だったとは。

まさかこんなところに旧軍の残照があるとは……  腕を組み、じっくりと考え込んでしまいそうな2ヶ所の陸軍用地標石。渋谷も軍の施設が身近だったのかと、この小さな遺構から分かってきますね。

取材・文・撮影=吉永陽一