駿馬伝説

戦国から江戸時代に活躍した武将・内藤清成の生涯と併せて語り継がれている伝説に「駿馬伝説」というものがあります。

清成が徳川家康の鷹狩に同行した際のお話です。

清成は鷹狩の時、家康に「馬に乗りひと息に回れるだけの土地を与える」と言われます。

「ひと息で」馬が走れるだけの土地。

家康の意地悪なからかいともとれる発言ですが、驚くべきことに清成の愛馬は広大な土地をひと息に駆けてみせました。

しかし、走り終えると馬はそのまま息絶えてしまったといいます。

愛馬のおかげで広大な領地を得た清成は、供養のために樫の木の下にその亡骸を埋めたそうです。

清成の没後から時を経て、1816(文化13)年に内藤家の家臣たちが馬の功績を讃えるため、樫の木のあった場所に塚を築き碑を建てました。

これが現在の新宿区内藤町にある駿馬塚の起こりとされています。

フィールドワーク①かつての内藤家の領地を歩く

かつての内藤家の領地である新宿区内藤町を実際に見て回るため、東京メトロ丸の内線・四谷三丁目駅を起点に駿馬塚を目指してのんびり歩いてみることにしました。

新宿通りを新宿御苑方面に向かって真っ直ぐに歩き、四谷四丁目の交差点を左折して内藤町に入ります。

 

ここで、駿馬塚を訪れる前に内藤清成という人物について少し調べてみることにしましょう。

内藤清成は1555(弘治元)年三河国(現在の愛知県中部・東部)に生まれ、徳川氏の家臣であった戦国武将・内藤忠政の養子となり19歳でその跡を継ぎました。

1580(天正8)年になると当時2歳だった徳川秀忠の傅役(武芸を教えたり、身の回りの世話を行う教育係)を任され、1590(天正18)年の豊臣秀吉の命による徳川家康江戸移封の際には鉄砲隊を率いて先陣をつとめるなど、家康からの信頼が厚い人物であったことがわかります。

新宿区内藤町
新宿区内藤町

江戸時代に入ると、清成は行政面でも活躍。関東総奉行や江戸町奉行、老中などをつとめ、徳川秀忠の教育係時代から同僚としてつきあいのある常陸国江戸崎藩の初代藩主・青山忠成とともに江戸時代初期の幕府を支えました。

華々しく順風満帆に見えた清成のキャリアですが、1606(慶長11)年にある出来事で大御所家康の不興を買ってしまいます。

事件は家康が郊外の鷹場へ狩に出かけた際に発覚します。

狩猟が禁止されていたはずの御鷹場に、狩猟罠が仕掛けられているのが見つかったのです。

この狩猟罠の設置を許可したのは清成と同僚の青山忠成の両名であったとされ、二人はどうにか切腹は免れたものの、徳川秀忠から停職と籠居(自宅謹慎)を命じられてしまいました。

それ以降、清成は行政から遠ざかり、1608(慶長13)年に54歳でこの世を去ったと言われています。

フィールドワーク②伝説の残る駿馬塚

四谷四丁目の交差点を左折し、一本横の道に入って進むと多武峯内藤神社(とうのみねないとうじんじゃ)に辿り着きました。

多武峯内藤神社の創建年代については不明ですが、内藤家の屋敷神として祀られていたことから、江戸時代初期の創建であるという説が有力だそうです。

緑豊かな境内の奥に、駿馬塚があるのを見つけました。

隣の厩舎の中には、駿馬伝説で語られる清成の愛馬の像がひっそりと佇んでいます。

調査を終えて

今回は駿馬伝説の残る駿馬塚と内藤清成の生涯を併せて紹介しました。

恥ずかしながらこれまで内藤清成の存在を知らなかったのですが、民話や伝説を調べていくなかで、その人の存在がぐっと濃くなったり身近に感じることができる、大変興味深い経験になりました。

新宿御苑の近くに行くことがあったら、ぜひ駿馬塚を訪れてみてはいかがでしょうか。

きっと何か面白い発見や気づきがあるはずです。

取材・文・撮影=望月柚花