お玉ヶ池

昔、桜ヶ池のほとりにあった茶屋に看板娘のお玉という女性がいました。

美しい娘であったお玉は、ある時二人の男性に言い寄られてしまいます。

どちらも申し分ない男性なのに、どちらかを選ばなければいけない。

思い詰めた末、お玉はなんと身を池に投げて亡くなってしまいます。

彼女を哀れに思った近隣の人々はやがてこの池を「お玉ヶ池」と呼ぶようになり、池のほとりに「お玉稲荷」を建て、亡くなったお玉の魂を慰めるようになったそうです。

フィールドワーク①お玉が身投げした池があった土地

お玉が身を投げることになるお玉ヶ池(桜ヶ池)は、どんなところなのでしょうか。さっそく岩本町周辺を歩いてみることにしましょう。

JR秋葉原駅から神田川にかかる和泉橋を渡り、都営新宿線岩本町駅方面へ向かいます。

都営新宿線の岩本町駅が見えてきました。

岩本町駅を通り過ぎ、水天宮通りを東京メトロ日比谷線小伝馬町駅へ向かってさらに歩いて行きます。

車通りの多い都会の風景が続き、本当に史跡はあるのか? と不安な気持ちになりますが、岩本町2丁目6番地を右折して路地裏に入ると「お玉ヶ池跡」と「お玉稲荷」に到着しました。

フィールドワーク②お玉ヶ池跡とお玉稲荷

江戸時代以前には不忍池から南下する水の流れがあり、その水はお玉ヶ池を経由し、現在の東京湾まで流れていたそうです。

それまでは不忍池と同じ、あるいはそれ以上の大きさだったと言われているお玉ヶ池ですが、江戸後期あたりから徐々に埋め立てられ、1845(弘化2)年の時点では池自体が存在しなくなってしまいます。

埋め立てられたお玉ヶ池周辺の土地は住宅地となり、北辰一刀流の道場「玄武館」や、儒教者や漢学者の多く住む江戸きっての学問の地でもあったと言われています。

また、江戸在住の蘭方医たちによる天然痘予防のための私営医療施設「お玉ヶ池種痘所」は、1858(安政5)年にお玉ヶ池周辺にあった武士・奉行の川路聖謨の邸宅内に建てられました。

このお玉ヶ池種痘所は、現在の東京大学医学部の前身としても知られています。

隣の小さな祠には弁財天が祀られています。

お玉稲荷神社は江戸の地誌である「江戸名所図会」などに取り上げられており、古くから弁財天のほか龍神が併せて祀られているとされ、「新撰東京名所図会」にはそれに関連する伝承も記されているそうです。

調査を終えて

二人の男性から言い寄られ、思い詰めた末に池に身を投げてしまう、そんな一人の女性の悲しいお話が残る千代田区岩本町。

遠い過去に生き、そして自ら命を絶ったお玉。その気持ちに想いを馳せながら、周辺を歩いてみました。

当時のお玉が池は大きく、街並みも今とは違ったことでしょう。

現在のお玉ヶ池跡には、とても小さな池がひそやかに残っています。

取材・文・撮影=望月柚花