フィールドワーク①東西の池に住むカエルたちが揉めた「蛙坂」

昔々、その坂の東の湿地帯には蛙が集まる池があり、西にある屋敷の中の池にも蛙が多く生息していました。

坂を挟んで東西二つの池に住む蛙たちが、何らかの理由で揉めて合戦を繰り広げた場所であることから、「蛙坂」と呼ばれるようになったそうです。

蛙の合戦と聞くとなんだか可愛らしい感じもしますが、現在の蛙坂はどんな様子なのでしょうか。

東京メトロ丸ノ内線・茗荷谷駅からスタートし、文京区小日向1丁目にある蛙坂を目指してみることにします。

駅を出たところで、まずは春日通りを後楽園駅方面に歩いていきましょう。

小石川5丁目で横道に入って東京メトロ丸ノ内線の線路の下をくぐり、しばらく歩くと蛙坂が見えてきます。

かなり急な坂が見えてややたじろぎますが、頑張ってのぼっていくと坂の中腹に文京区教育委員会が設置した蛙坂の説明板がありました。

 〜中略〜『御府内備考 』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂と呼ぶようになったと伝えている。なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂へ通じている。

現在の蛙坂周辺は住宅地で、かつて湿地や屋敷があった面影はありません。

東西の蛙たちが揉めた理由がどんなものだったのかが気になり、帰宅してから調べてみましたが、詳しいことはわからずじまい。

合戦の明確な理由は当時の蛙たちしか知らないのかもしれません。

フィールドワーク②手塚治虫の作品にも登場する「三百坂」

次の坂は文京区小石川にある「三百坂」です。

蛙坂から春日通りに戻り、小石川5丁目の交差点を一旦播磨坂方面へ進みます。

いくつかの細い道を後楽園駅方面へ歩いていくと三百坂が見えてきました。

先程の蛙坂とは違い、三百坂はかなりなだらかな坂。

ここにも文京区教育委員会の設置した説明板があります。

『江戸志』という書物によると、この三百坂は松平播磨守の屋敷から少し離れた所にあり、松平家では屋敷のしきたりとして、新しく仕えるようになった武士が役に立つかをこの坂で試したそうです。

その方法は「主君の登城の時に玄関で目見えさせ、後ほど衣服を改めてこの坂で供の列に加わらせる」といったもの。

坂を過ぎるまでに列に加わることができなかった武士には、遅刻として三百文(現代通貨に換算すると約7500円)の罰金を出させたといいます。

かなり厳しいですね。絶対に遅刻したくない気持ちになります。

ちなみにこの三百坂は、手塚治虫による幕末を舞台にした作品『陽だまりの樹』にも登場しているそうです。

フィールドワーク③平安時代を生きた老兵の伝説が残る「実盛坂」

最後は文京区湯島3丁目にある「実盛坂」を探します。

東京メトロ千代田線・湯島駅の5番出口から徒歩4分ほどの場所にあるそうなので、さっそく歩いて行ってみましょう。

こちらが実盛坂です。蛙坂を超えるほどの急勾配。そして坂というよりは階段でした。

こちらも前述の2つの坂と同様に説明板があります。

実盛坂の名前の由来となっている斎藤実盛は、平家物語などに登場する平安末期に生きた武士です。

実盛は源義朝の忠実な武将として活躍。義朝の滅亡後は平氏に仕え、最期は加賀国の「篠原の戦い」で討ち死にするという生涯を送りました。

物語で実盛の年齢は60〜70歳と書かれ、戦に行く前には「最後まで若々しく戦って、首を取られても恥ずかしくないように」と白髪を染めたと言い伝えられています。

坂の下の南側に実盛の塚や実盛の首洗いの井戸があったという伝説から、この坂は実盛坂と呼ばれるようになったそうです。

調査を終えて

蛙の合戦がおこなわれた蛙坂、遅刻すると三百文の罰金を徴収される三百坂、斎藤実盛にまつわる伝説がある実盛坂。

文京区内で民話・伝承のある3つの坂を巡ってみましたが、いかがでしたでしょうか。

今回ご紹介した坂はどれも住宅地にあり、民話や伝承がひっそりと現代の日常生活に溶け込んでいる様子が大変興味深かったです。

都内にはまだまだ民話や伝承のある坂が沢山あると思うので、いつか更なる坂を探しに行ってみたいと思います。

取材・文・撮影=望月柚花