一橋大学の隣にある小さなビストロ
東京都国立(くにたち)市。2020年に完成した三角屋根の「旧国立駅舎」で日塔さんとお会いした。国立駅からまっすぐ南にのびる「大学通り」を店に向かって歩きながら彼は言う。
「店に許可はとってあるし、ランチ終わりのアイドルタイムで他のお客さんもいないから撮影しやすいよ。食事もいいように出してくれと頼んであるから」
取材にあたってこのようにすべてを先回りで手配してくれた彼の職業は、80歳を超えてなお現役で活躍する俳優・山本陽子さんのマネージャーだ。彼女が所属する芸能事務所・三陽企画の代表取締役も務める。
事務所兼自宅が国立駅近くにある日塔さんの行きつけは、大学通りの由来でもある一橋大学の東キャンパス隣に佇む小さなフランス料理レストラン『ウマノワ(Umanois)』。背が低い作りのドアがかわいらしく、隠れ家感を演出している。
中に入るとさっそくシェフが「今日はパイ包みにしますね」と用意をはじめた。いつもメニューはまかせているとのことだ、こんな絵に描いたような行きつけがあるなんてうらやましすぎる……。
とにかく人とやりとりすることが仕事
山本陽子さんの甥にあたる日塔さんは、幼い頃から撮影現場などに遊びにいっていたという。しかし山本さんのマネージャーになったのは30歳をすぎてからのこと。大学卒業後は教育関係の仕事をしていた。
「予備校で使う教材の編集や企画の仕事をしてたんだよね。ちょうどパソコンが一般に普及してきた時代だったから、会社がそっちの指導にも手を広げたんだけど、教える人材が不足してて。そのうち、自分で教えたほうが早いんじゃねーかってシステム関連のことを勉強したり」
前職を辞めたあと、三陽企画の前社長に声をかけられ「別にやりたくはなかった」というマネジメントの仕事に就いた日塔さんだが、与えられた範囲を超えた仕事まで見つけてなんでも自分でやってしまう彼にはマネージャーの素質があったとしか思えない。現にそれから25年間、この仕事を続けているのだ。
改めて今回の取材をひと通り段取りしていただいたお礼を言うと、日塔さんは「癖みたいなもんだよ。スケジューリングとかマネジメントとか、とにかく人とやりとりすることが仕事だからね」と笑った。
食べている途中さえも美しい一皿
ここで「おまたせしました」と、ものすごく美しい一皿が運ばれてきた。
うわー、きれいな料理……。ずっとそう思いながら撮影したが、あとからレコーダーを確認すると声にも出てしまっていた。だってほんとに、それくらいきれいなのだ。
シェフが「泡とかいいですか?」とスパークリングワインをすばやく出してくれ、取材に配慮した最小限のやりとりからでも日塔さんをよくわかっている店なのが伝わってくる。口を潤したところで、さっそくパイ包みを味わっていただこう。
「うん、おいしい」
少しずつ崩しながら食べていくと、パイ包みに隠れていた色とりどりの野菜やクスクスが姿を現し、なんとも美しい。食べ進めても美しいまま……というか、どんどん鮮やかになっていくのでおどろいた。
「何を食べてもおいしくて、ここでしか食べられないものばかりだから基本的におまかせ」と話す日塔さんの気持ちがよくわかる。次に来るときにはどんな料理に会えるのだろう。
行きつけから行きつけへ
日塔さんは週に一度はかならずここに来る。国立にいる日の夕食はだいたいここか、駅の北口にある肉バル『マルソ(MARZO)』の二択だという。
「シェフの杉野さんとはもともとマルソの飲み友達。彼の奥さんがマルソでシェフをしてたんだよ。出会ったとき彼は会社員だったけど、その前は料理人をしてたみたい。2020年11月にここをオープンしたんだけど、オープン前も飲みながら出店によさそうな場所の話をしたりね」
な、なんと飲み友達が自分の店を開くなんて……夢のような話ではないですかー!
「いいでしょ(笑)誰かの誕生会とかお花見会はここかマルソだね。プライベートだけじゃなく仕事の打ち合わせとかでも使うよ、せっかく国立まで来てくれた人にはおいしいものを食べて帰ってほしいから。とにかくこの店にすごく助けられてる」
そこからさらに聞いていくと、国立周辺にいくつかある日塔さんの行きつけ店の客やスタッフの方々が、彼を介してどんどんみんな友達になっているらしいのだ。実際、日塔さんはなにか人を安心させる空気をもっていて、この人が紹介してくれるなら大丈夫と思える。こんな大人になりたい。
人と人をつなぐ力をもつ日塔さんに「国立の街じゅうにお友達の輪が広がっているんですね」と言うと「まあ、良くも悪くもね」とちょっと苦い笑顔を作っていた。
あ、もしかして「うまいもん好きの輪」でウマノワなんですかな? と思いついたが、違ったらわりとはずかしいので言わなかった。
コロナ禍でしぼられていった行きつけ
コロナ流行で国立から出なくなった日塔さん。店で飲み食いできない時期はテイクアウトを利用していたが、少し状況が落ち着いてきても「コロナ前のようには、いろんな店に行かなくなっちゃった」と話す。そのいちばんの理由はストレスだそう。
「居心地のよくない空間に居られなくなっちゃってね。今までは年間1000人以上と関わってきて、コミュニケーションこそが仕事だった。そこを拒絶しちゃったら自分の存在価値ってなんだろうっていう……でもそんなこと言ってる場合じゃないなと自分のメンタルを保つ方にシフトしたんだよね」
私自身、コロナで家にこもっているうちに他者に対する許容範囲が狭くなっていくのを感じていた。そういうときには、よく知っている間柄でさえもストレスを感じてしまうものだ。日塔さんが先ほど見せた、苦い笑顔の理由が少しだけわかったような気がする。
そんなストレスがあるときにも通いつづけられるお店が、『ウマノワ』と『マルソ』だった。
「店によって客層のカラーがあって、毎日行きたい店もあれば時々行きたくなる店もある。『マルソ』は『ウマノワ』よりもいろんな人が来てにぎやかなカラーだから、ひとりでゆっくり飲みたいときはここかな。最近は徐々に、仕事や人付き合いも戻ってきてるけどね」
気配りの人がくつろげる店
「使える話あるかな、写真は大丈夫?」と終始さりげなく気遣ってくれる日塔さん。十分に素材が集まったことを伝えると、それでは……と私にもスパークリングワインをすすめ、お店の方に「彼女にもなにか出してあげて」と声をかけるのだった。
チーズや燻製などの盛り合わせとバゲット、シェフいわく「日塔さんセット」をつまみながら私も乾杯させてもらう。どれもおいしくてスパークリングワインが進む進む。
「今日この予定があることを山本に話したら『私もマネージャーとして同行しなくていいの?』と言ってたよ(笑)」と山本陽子さんのラブリーな冗談まで聞けて、取材なのになんだかすっかりもてなされてしまった感じがする。
長年のマネージャー業で細やかな気配りが癖になってしまった日塔さんが、静かにくつろげるビストロ『ウマノワ』。ひとりで通える行きつけがあるからこそ、彼はいつでも人にやさしさを配り続けられるのかもしれない。
取材・文・撮影=サトーカンナ