廃村でテントを張って一泊
峰集落は東京周辺の廃村の中ではかなり知られている場所だ。鳩ノ巣駅から山道を歩いて1時間少しで行くことができるし、柳田國男がまだ帝大の学生だったときに訪れ、そのことを書いているので、それも知られるようになった理由だと思われる。
メジャーな廃村のひとつとなり、とくに最近はインターネットによって容易に峰の情報が得られるが、筆者が最初に訪れたときはまだほとんど知られていなかったと思う。峰を最初に訪れたのは1995年、年近く前のこと。そのころはインターネットもなく、確か世田谷区にある大宅壮一文庫に出かけ、ずいぶん前の雑誌の記事から峰のことを知ったのである。当時、ある出版社で『探険倶楽部』(*1)という雑誌を創刊すべく、いろいろ調べていたころである。
廃村探険も探険のひとつだろうと、総勢確か4名で峰探険隊を結成して出かけたのが最初である。その雑誌はいわゆるアウトドア誌だったので、廃村のなかでテントを張って一泊してみようと計画した。
峰はまるでタイムカプセル
鳩ノ巣駅を出ると、カメラマンからいきなり10ℓの水が入った給水袋を手渡された。わずか4名では飲料用と調理用を合わせてもそんなにいらないと思うのだが、誰かが担がなければならない。責任者としては嫌とも言えないので、ザックの上にその袋をつけた。体が地面に吸い込まれるような嫌な感覚をいまも覚えている。駅の反対側に出て、集落の中を抜けると登山道になる。道はさほど急ではないが、何しろ水がザックの上でゆらゆら揺れているのが体に響き、私だけがつらい1時間ほどの難行。
大根ノ山ノ神でしばし休憩。その先の川苔山へ向かう登山道の分岐から細い道へ入ると、小さな古びたブリキの看板。手書きの大まかな地図に、目指す峰と言う文字が書かれていた。森を抜けて行くと、平坦な場所に出た。木立の中に、古いけれどしっかりと立っている家が4、5軒残っていた。まだ廃村ともいえない風景だった。
周辺を散策し、家屋のなかに足を踏み入れてみると、古びた木製の風呂桶や戦前の手紙や葉書、雑誌などが残っていた。なかに昭和2年(1927)発行の『文藝春秋』があり、奥付をみると、なんと編集長は菊池寛だった。
そんなに古いものがそこに残っているのが、なんとも不思議。その家の中は時間を超えた、いわばタイムカプセルのような空間だった。タイムスリップした我々は、暗くなるまでその時間を楽しんだ記憶がある。峰は前回取り上げた倉沢の集落と同じように、埼玉県の秩父の武士たちが移り住んだのが始まりのようだ。600年ほど前の話である。
彼らは峰に住みつき、主に林業や炭焼きなどで暮らしてきたそうだ。それが昭和12年(1937)ころから徐々に離れ始めたという。峰の最盛期は電気が通じた1953年ころで、家は14軒あった。その後、林業や炭焼きだけでは暮らせなくなり、1972年には最後の住民が離村し廃村になった。先に述べた柳田國男は明治32年(1899)、帝大生のときに峰を訪れて、峰の長である狩好きの福島文長さんの家に二晩泊まった。そのことを10年後の後狩詞記(のちのかりことばのき*2)に書いた。「東京から十六里の山奥でありながら、羽田の沖の帆が見える」
帰りに羚羊(かもしか)の角でこしらえたパイプをもらったとも。羽田沖に浮かぶ船がみえたとは驚きの話である。昔はそれほど空気が澄んでいたのだろうか。
キャンプの翌朝、集落内をさらに歩き回り、一カ所に集められたお墓や、集落の上のほうに位置する福島文長さんの家跡(おそらく)もみた。ここは敷地がとても広く、周りを囲っている石垣も立派なものだった。
峰を後にして、帰りは本仁田山経由で奥多摩駅へ下りた。
村の近くまで林道が通っていた
後日、峰に住んでいた人に会うことができた。峰の人たちは鳩ノ巣駅から近い棚沢の集落へ移住した人が多く、その人も棚沢に住んでいた。「1967年だったじゃろ。軒ばかりの小さな集落だったがね。ランプ生活がなごうてな。おばあさんなんか青梅までお使いに行くのに一日かけて行ってたな。わしのおじいさんは安政のころからここにおった。古い村じゃ」
お会いしたのは峰で生まれ育った福島伊勢松さん。当時で74歳。いまもご存命なら104、5歳になる。伊勢松さんにお会いしたときはもう足が悪くなっていて歩くことがままならない様子だった。
一枚の大きな写真をみせてもらった。麓の棚沢から峰へ帰る途中の写真で、大きな臼を担いでいる。伊勢松さんが30代後半のころの写真だ。
「この臼は50kgもあったんじゃ。6、7歩歩くと、締め付けられた腹が痛くて、気分も悪くなったがね」こんな重いものを担いでいたのでは、足も悪くなるだろう。私の10ℓの水の比ではない。
伊勢松さんの奥さんの話では、顔も知らずに町から嫁に来たそうで、「水にはたいそう困ったし、ここの生活は大変で大変で……」
そのときは懐かしいと言っていたが、飲み水や風呂場の水などは離れた川まで一日に7回くらい汲みに行かなければならなかったという。これが大変だったようだ。最後に伊勢松さんはこうつぶやいた。「峰から下りたみんなで集まってお茶飲んだりするがな。ひとつごころになって、お互いいたかったのう、恋しいよ」
以前話を聞いた『奥多摩歴史物語』の著者でもある安藤精一さんは、峰についての印象をこう語っていた。「ここあたりで昔、教師をしていたので、峰には家庭訪問で行ったな。ここらの人は何もなくても、いつも穏やかで幸せに暮らしていたよ」
今回、伊勢松さんの電話番号をネットで探し、ひょっとしたらまだご存命かもしれないとかけてみた。「おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号を……」年の月日は長すぎたようだ。その後、数回峰を訪れた。2010年ころに訪れたときは残っていた家が崩壊一歩手前。最近では2021年頃に訪れたが、家は完全に崩壊、消滅していた。代わりに棚沢から伸びた舗装された林道が峰の近くまで通っていた。
峰の中央に大きな木が二本立っている。御神木の銀杏の木だ。その根元には小さな社がある。村の守り神、日天様(日天神社)だ。伊勢松さんは子どものころよくこの御神木の実を拾って食べたそうだ。御神木も日天様も崩壊せずに残っている。きっと峰の関係者が手入れをしているのだろう。村の守り神は、村人がいなくなっても村を守り続けている。
*1 探険倶楽部
1995年から翌年にかけて4号ほど刊行された雑誌。一部に熱いファンがいた。その年後の2008年に突如『探険倶楽部AGAIN』として山と溪谷社から1号だけ復刊した。
* 2 後狩詞記
柳田國男が帝大生のときに訪れた峰の体験を10年後に出版したこの本に記している。現在、筑摩書房の全集や文庫本で読むことができる。
奥多摩の廃村[東京都奥多摩町]
【 行き方 】
JR青梅線鳩ノ巣駅下車。
文・写真=清野 明
『散歩の達人』2023年5月号より