江口寿史

1956年生まれ。漫画家。中学生の頃より野田市に住み、県立柏高校を卒業後、1977年に漫画家デビュー。
『すすめ!!パイレーツ』、『ストップ!!ひばりくん!』などをヒットさせ人気漫画家に。90年代以降はイラストの仕事も多く、その絵は多方面に影響を与えている。

漫画家・江口寿史のはじまりは、柏の街の画材屋さんにあったのだ

柏の駅の東口を出ると、左手側には旧「そごう柏店」。その最上階で威容を誇るのは、回転レストランである。かつては日本のそこかしこにあったものだが、今では稼働しているものはほとんどなく、現存するものですら多くはない。
「うん、もちろんぼくも行きましたよ。熊本から親戚が来たときとか、そういう機会にはやっぱりここでした」

江口寿史さんが熊本県水俣市から親の転勤で野田市に引っ越してきたのは14歳のとき。柏駅前の大開発でダブルデッキ(ペデストリアンデッキ)や「そごう」ができる直前だ。
「アーケードの二番街、ここのマクドナルドもたしか古いですよ。ぼくが東京に行く前からある。あと、このバーガーキングのところは、『梅林堂』って書いてあるでしょう。ここは昔は和菓子屋さんだったんだけど、この2階に喫茶店があったんですよ。集英社の編集さんがこっちまで来たときは、ここで打ち合わせしてましたね」

かつての江口さんはフォーク少年で、吉田拓郎に心酔していた。ギターをかき鳴らして歌っていたものの、昔からの夢の一つに漫画家があった。熊本から野田に引っ越してきて東京が近くなったとき、その夢が一歩近づいたのかもしれない、と思っていた。高校を卒業後しばらくして、自分は何をしよう、あれはできないこれもできない、と一つずつ可能性を潰していった時に、そのことを思い出した。

「むかし集英社が『少年ブック』っていう漫画雑誌を出していて、そこにあるとき、『手塚治虫のマンガ大学』っていう付録がついていたんです。手塚先生が漫画の描き方を教えてくれる本ですね。高校の時も落書きくらいの絵は描いていたし、とにかくこの本にあったやり方でやってみようと思って、ここの『いしど画材』に画材を買いに行きました。Gペンや丸ペン、あと何種類かのペンと墨汁くらいで、スクリーントーンは高くて買えなかった。でもとにかく、そこから漫画を描くことが始まったわけです。こんなビルになっちゃってるんですね、いま。でも場所はおんなじですよ」

いしど画材

建物こそビルになったが、1967年から同じ場所で同じ商売を続ける『いしど画材』は、気軽に本格的な画材を買いに行ける、貴重なお店なのだ。

●10:00~19:00、火休。
☎04-7167-1410

柏の思い出は『ホワイト餃子』と共に

思い出話を聞きながら、二番街を抜けてさらに東へ。その先にある、江口さんが高校の頃から愛してやまない『ホワイト餃子』は、今や全国数十店舗に広がっている。その中でも古参の柏店は、2012年に装いを新たにしたものの、場所も人気も相変わらず。柏・野田の名物といえば『ホワイト餃子』は外せない。

「野田の中学に通っていたとき、同級生に『ホワイト餃子』の息子がいたんですよ。あそこって野田が本店でしょう。ホワイト餃子との付き合いはそこからずっとですよ。東京に出てからも、ここの餃子を食わせるためだけに柏に友達を連れてきたことがありましたからね。ほんとにここで餃子食べてすぐ帰る、みたいな感じで(笑)」
店には水餃子やスープ餃子、定食セットもあるけれど、江口さんが頼むのは潔く、焼餃子とビールだけ。

「この餃子、ビールにしか合わないでしょ(笑)。定食? 頼んだことないです。ここの餃子の皮って、分厚くてザクッとしてるから、高校生のときなんかはスナック菓子感覚で、友達と来てどれだけ食べたかもわからないくらい食べましたよ。で、スナックにはご飯じゃないですから。ビールですよ、やっぱり。だから東京から友達を連れてくるときは必ず電車。車だとビール飲めないので(笑)」
ザクッというよりもはやバリッといったほうが正確だろうか。肉厚の皮が揚げ焼きされたこの食感は、もはやビスケットやその類に近いほど。
なるほどスナック感覚、よくわかります。ご相伴にあずかってビールをいただき、気分も上がる。

ホワイト餃子 柏店

東葛地区を中心に全国にその名をはせる『ホワイト餃子』の一店舗。肉厚でさっくりとした皮がやみつきになる。
焼餃子1人前(8個)520円、瓶ビール(大)550円。

●11:30~13:30・16:00~20:00、木・第3水休。
☎04-7164-6367

ただあんまりおなかに入れすぎても次に障るので、後ろ髪を引かれながら『ホワイト餃子』をあとにして、次に向かったのは『中華 大島』。ここは以前から気になっていたものの、なかなか来られずにいたのだという。

『ボンベイ』、『ボンディ』 カレーから始まる食道楽

「前に来ようと思ったときはちょうど休みの日で、食べられなかったんです。『中華 大島』がヤバイっていうことは4、5年前から聞いていて、やっと来られました」
と、その独特の外観をスマホで撮りまくる。入り口の上のテントはボロボロで、店先に出ている看板には「ラーメン・ギョーザ」とある。しかし実はこの店、今はカレー店なのだ。メニューにラーメン、ギョーザはもちろんない。

なんでもこの『中華 大島』、元は普通の中華料理屋だったものの、名店として知られる『横浜ボンベイ』で修業した現店主が先代である父親の逝去に伴って2013年頃に柏に戻って以来、じわじわとメニューのカレー比率を高めていったのだ。
結果、今ではカレーの名店として知られるようになったそう。それでも『中華 大島』として広まってしまった以上、店名を変えるに変えられず現在に至るという。

中華 大島

柏に『ボンベイ』ありとうたわれた名カレー屋の流れを汲む、柏の新たな名店。「渾身の一皿」と銘打つシャヒジャルカレー1050円は玉ねぎの甘み深み旨味がにじむ逸品。

●11:30~15:00・17:00~20:00、月休。
☎04-7164-9890

「ぼくはカレーが大好きで、基本的に何カレーでも好き。ここの店主が修業した『横浜ボンベイ』も、もとをたどれば柏の『ボンベイ』なんですよ。柏の人はみんな『ボンベイ』に思い出あるんじゃないかな」
『中華 大島』のカレーは粘度の低いサラリとしたソースに、口に入れた瞬間ホロリと崩れるまでに煮込まれた肉。いくつものスパイスの複雑な味わいと辛味は、頭のてっぺんから汗をじわりと染み出させる。滋味あふれる、ご飯にかけるスパイスソースといった趣だ。まさに『ボンベイ』直系。江口さんのカレー好きは柏の『ボンベイ』からだったのだろうか。

「もちろんぼくも柏の『ボンベイ』に思い入れはありますけど、食道楽は漫画家になって東京に出てきてからですね。出てきた直後からしばらくは集英社に住んでいたんです。当時の集英社には「執筆室」っていう部屋があって、泊まれるようになっていた。で、代々そこに原稿の遅い漫画家が住みついてしまう伝統があったんですよ(笑)。集英社は神保町にあるんですが、今でも行列している『ボンディ』っていうカレー屋さん、あれができたのがちょうどぼくが集英社に住み始めたころで、そこから食道楽が始まっちゃいましたね」

ギャグ漫画家として「傍観者」であること

しかし話を伺っていると、江口さんは野田や柏に愛着はあるものの、そこから少し距離をとっているようにも思える。
「ギャグ漫画を描いてきたからでしょうね。ギャグ漫画って、受動的というのかな、対象を斜めに見て、批評してるんです。『すすめ!!パイレーツ』も、当時の漫画の王道だった野球をどう茶化してやろうかっていうところから始まっています。特に水島新司さんの『野球狂の詩』は意識しました。千葉パイレーツの本拠地を千葉球場としていますけど、これは当時ぼくが住んでいた流山にあるという設定。今でこそ千葉の二子玉川とかいっておしゃれになってますけど、当時はなんにもなかったですから」
大都会の東京に対して、田んぼと川しかない流山。そうやって都会の真ん中で行われている野球を笑って相対化する。ギャグ漫画は対象を観察してずらしていくことで、はじめて成立するのだ。

「だからぼくは、自分を傍観者だと思っています。柏や野田と同じくらい、今住んでいる西荻窪、仕事場のある吉祥寺にも冷めている部分はあります。もちろんどこも好きなんですよ。愛着はあるんだけれど、同時にそれを冷静に見ている部分もある。ギャグ漫画家って、だいたいそういうもんだと思いますよ」

最近では漫画以外にもイラストの仕事も多くされている江口さん。ご自身はイラストレーターなのか漫画家なのか、どういう位置づけをされているのだろうか。
「ぼくは漫画家ですよ。今もずっとイラストも描く漫画家、という気持ちでやっています。漫画をあまり描いていないのは、ただ筆が遅いから、というだけです(笑)。またギャグ漫画を描きたいっていう気持ちはいつも持っています」

江口さんが柏の画材屋で漫画用にペンを買ってから、もう半世紀も近い。あのときはできたばかりだった駅前の「そごう」は閉店し、今は空きビルとなって新たな入居者を待っている状態だ。しかし空き家であろうとも、「そごう」の回転レストランは今も柏のランドマークだ。いつかこの建物がなくなったあとでも、きっと柏の人は「あそこには回転レストランがあったんだよ」と言い続けるだろう。

江口さんにとっての「ギャグ漫画」も、そのようなものなのかもしれない。今あるものの中に新しいものがやってくるのか、それとも基礎からやり直すのか。いずれにしても、かつての記憶と混じり合ったランドマークとして、いつまでもそこにあり続けるものなのだろう。

取材・文=かつとんたろう 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2023年4月号より