琴線に触れた、山並みの写真

小田急線の秦野駅や渋沢駅から南側を眺めると、丹沢の展望台といわれる渋沢丘陵が横たわっている。丘陵に立てば北側には丹沢の峰々、反対の南側には広大な丘陵が広がっている。大磯丘陵だ。さらにその先には相模湾や伊豆大島もぼんやりと見える。丘陵からだと視線は大抵、丹沢方面に釘づけとなる。しかし今回、反対側の大磯丘陵に目を向けたきっかけは、『丹沢今昔』(*1)という本。「カヤぶき集落」という章があり、写真が掲載されていて、茅葺き屋根の民家が何軒も写っている。奥には渋沢丘陵、そのさらに奥に丹沢の山並み。その写真が琴線に触れた。

いまは茅葺きの家は一軒もないと書いてあったが、以前友人と連れだってその撮影場所を探しに篠窪へ向かったことがある。そのときは確信が持てる場所は見つからなかった。

600年間、いまも命日に供養

畑の展望台の先から峠集落方面を望む。曲がりくねった道は県道708号。
畑の展望台の先から峠集落方面を望む。曲がりくねった道は県道708号。

「渋沢中学校入口」バス停までバスに乗った。少し先から丘陵へ向かう道へ入る。坂を上がると道は峠隧道の上を通り、眺めのいい「畑の展望台」へ着く。右手に丹沢の峰々、左手に峠集落が少し見える。峠とはまた変わった集落名だ。古い戦前の地図では「窪ノ庭」という名称が使われていたようだ。篠窪よりは規模が小さい窪地なので、庭と名付けたのかもしれない。

峠集落を左手に見て、丘陵の尾根道のような農道を進んでいく。この道は矢倉沢往還の道でもあり、途中から篠窪へと下りていく。集落に入ると、まもなく無人の家があった。無人になってすでに20年ほど経つという。家の裏手に土蔵、いつ倒壊してもおかしくないような朽ち果てた門がある。この家は旧篠窪村の名主、小島家だという。

村内の家はほとんど新しい家だが、一軒一軒の敷地が広い。たばこや養蚕なども行っていた篠窪は豊かな農村だったのだろう。

集落を抜けて、村の守り神ともいえる了全山(りょうぜんさん)に向かう。山の手前に村全体が見える場所があった。おそらくここが例の『丹沢今昔』の写真の場所だ。茅葺き屋根はないが、山々に囲まれた窪地に、家々が寄り添い暮らしている風景がなんとも心を和ませてくれた。

了全山手前の高台から篠窪集落を望む。中央右寄りの高い山は塔ノ岳、右端の小高い山は三ノ塔。
了全山手前の高台から篠窪集落を望む。中央右寄りの高い山は塔ノ岳、右端の小高い山は三ノ塔。

了全山は篠窪の地を治めた二階堂出羽守政貞(*2)の墓がある。政貞は鎌倉が見える場所に墓を立ててほしいと頼み、ここ了全山に眠っている。

政貞の死後、600年たったいまでも毎年命日になると住職と子孫など三人が供養の念仏を唱えるために山頂へ向かう。昔から決められていたそうだが、それを守っているということが驚きである。

車とサッシが暮らしを変えた

篠窪には2005年、里山の環境保全を目的に「NPO法人しのくぼ」ができた。訪れた人が安らげる「故郷づくり」を目指していたそうだ。残念ながらNPO法人は一昨年に解散したが、活動はそのまま続けている。

「いまでも電話が来るんですよ、『今年の菜の花の見頃はいつですか』なんてね。解散はしたけど対応はしてます。菜の花はもう植えてませんけどね」

お会いした稲葉修司さん(68歳)はNPOの専務理事だった。広い家に一人で住んでいる。

「篠窪の人口はいま200人を切ってます。昭和45年には350人ほどいたので半減近く、減少の一途です。18歳以下はたったひとり。どうなるんでしょうか、この先……」

頭を抱えるしかない問題だ。篠窪だけでなく都市でさえ出生率が下がっている日本は、本当にこの先どうなるんだろうか。想像しているよりも深刻な事態になるような気がしている。

「僕が子供の頃、昭和30年代から40年代初めの頃までの篠窪はいまとは違っていました。この写真を見てください。奥野幸道さんという人が撮った篠窪の風景です。牛もいるし、家はみんな茅葺きでなく藁葺きの家ですが、これを葺き替えるときには、村の半分くらいの家が協力してやったものです。まさに結のようなものでしょう。子供も参加するんですよ。屋根からとった古い藁を集めて山のほうへ捨てにいくんですが、それを子供が持っていく。藁は小麦の藁で、何年か前から葺き替え用にとっておいてね。みんなで協力して暮らしていたんだと思います」

なんと僕がみた『丹沢今昔』と同じ写真がそこにあった。集落を背景に牛が写っている写真もあった。なんとも言いようのない郷愁感が漂う。僕も山形県の田舎で牛が農作業をしている風景をかすかに知っている。

村のひとたちが協力して暮らしていたつながりはもうないという。藁葺きの家がなくなったからそんな必要がなくなったのだろうか。

「理由は二つ。ひとつは車です。車が入ってきたことで日常のさまざまなことが便利になりましたが、反面、協力しなくてもそれぞれに暮らせるので、つながりは希薄になります。もうひとつはアルミサッシです。縁側に来て腰を掛けて話したりすることがなくなりました。これも人との関係を希薄にします。よその家に入らなくなったんですよ。ほとんど家の外での立ち話になったんです」

車とサッシが集落の人間関係を希薄にした。これではほとんど都市生活者だ。ただ、都市はその希薄さを求めて住む人もいるが、篠窪はそうではない。そうせざるを得なくなったのだ。

言葉には出さないけれど、稲葉さんは、おそらくそんな篠窪がいやなのだ。戻れるなら昭和30年代に戻りたいのではないか。日本の高度成長が始まる頃の時代に。

 

集落から三嶋神社へ向かった。神社の前には道路にはみ出した巨木。椎の木だそうだ。鉄製の柱がその巨木を囲むように支えている。よぼよぼの老木をなんとか生きながらえさせている。

三嶋神社の椎の木。推定樹齢500年、樹高は15mほど。道路にはみ出している。
三嶋神社の椎の木。推定樹齢500年、樹高は15mほど。道路にはみ出している。

その先に富士見塚がある。その昔、源頼朝が巻狩りの際に立ち寄った富士見の場所だ。その少し上に稲葉さんたちが作った展望台がある。

富士見塚の少し上にある展望台、富士見塚休憩所からの眺め。
富士見塚の少し上にある展望台、富士見塚休憩所からの眺め。

富士山や矢倉岳の峰々と足柄平野を流れる酒匂川などがみえる。ふと広場に焚き火をした跡。周辺の子供たちが集まって遊ぶ場所でもあるので、みんなで鍋料理でもしたのだろうか。

篠窪に住む子供たちはもういない。でも篠窪に遊びに来る子供たちはまだいっぱいいる。稲葉さんたちは、草刈りやいろんな作業をして、篠窪を美しく保っている。子供たちがいつ来てもいいように。

 

 

*1 丹沢今昔
戦前から丹沢を歩き、何冊ものガイドブックを出した奥野幸道(故人)の本。2004年刊(有隣堂)。撮影したのは1964年。

*2 二階堂出羽守政貞
相州鎌倉二階堂出身の隠岐守行村を祖とする。行村は建暦3年(1213)、和田合戦の功績で鎌倉幕府から大井庄を授かり、篠窪の地頭になる。一族は鎌倉・室町幕府・小田原北条氏、大久保氏に仕え、代々篠窪地方を統治した。政貞は明徳時代(1390〜94)に篠窪に来て居を構えたという。応永元年(1394)に没し、篠窪の地福寺に墓地がある。

矢倉沢往還沿いの篠窪[神奈川県秦野市・大井町・松田町]

【 行き方 】
小田急小田原線渋沢駅南口から神奈川中央交通「峠」行き5分の「渋沢中学校入口」下車。帰りは小田急小田原線新松田駅から。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2022年3月号より