かつて『新橋のキムラヤ』として親しまれてきた『珈琲 メルシィー』
白い壁と緑の椅子が清々しい『珈琲 メルシィー』。店の様子からてっきり新しいお店なのかと思ったが1931年、新橋1丁目に創業した老舗喫茶店だった。
訪れたのはランチタイムが落ち着いてきた14時ごろ。厨房で作業をしていた3代目の店主・大塚裕丈さんが話を聞かせてくれた。
「私のおじいさん(初代の秀雄さん)は、新橋1丁目の西新橋交差点の角にある『キムラヤ』の創業者の次男なんですよ。2代目を継いだ父(健太郎さん)の話では『昔はそれぞれ兄弟で新橋キムラヤ、田村町キムラヤ、虎ノ門キムラヤとして並んで営業してた』と言っていました。でもみんなで同じ場所でやってもしょうがないからって、1968年父が2代目になってから店名を『珈琲 メルシィー』に変え、ケーキやパンの提供をやめて朝8時から夜11時まで喫茶店やることにしたそうです。今でも登記上の会社名は『新橋キムラヤ』なんですよ」。
創業以来、新橋駅の日比谷口からすぐの場所で地元の人たちからは『新橋のキムラヤ』として親しまれてきたが、2000年に新橋6丁目にある現在の場所に支店を出した。当初から2年間だけ営業するつもりだったので、予定通り2002年に撤退。そのタイミングで『新橋のキムラヤ』を改装し、さまざまな飲食店で経験を積んできた裕丈さんが考案したランチをスタート。同時に主となって店を継ぐことになった。
新橋の繁華街のど真ん中にあった『新橋キムラヤ』改め『珈琲 メルシィー』はとにかく朝から晩まで忙しい店だった。日頃の疲労が蓄積したのだろう、2008年に裕丈さんは大病に冒されてしまった。
「病気をしてからは長時間働くのは難しくなり、支店があった店舗が空いていたので移転して営業することにしました。ここは周辺に飲食店が少ないし、お客さんはサラリーマンが多いから平日は午後5〜6時で終われるし、土日祝は休んでも大丈夫ですしね(笑)」。
以前は3~4人の従業員がいたが、現在は健太郎さんと裕丈さんを中心に裕丈さんの奥さんとアルバイト1名で営業。「常連さんからの紹介かこのビルに用事がある人以外、一見さんはあまり来ないですね」と裕丈さんが言う通り、知る人ぞ知る路地裏の名店として親しまれている。
半熟の目玉焼きが尊い! とろ〜りとやわらかいハンバーグ
ランチメニューは、どれも魅力的だが、裕丈さんが「ダントツ人気!」とおすすめしてくれたハンバーグ(デミグラス)950円をオーダー。さらに100円を追加してコーヒーもいただくことにした。
ハンバーグの肉だねは毎朝6時ごろ一気に仕込んでいるためすでに跡形もなかったが、生パン粉に牛乳を浸したものとソテーしたタマネギのほか、調味料などを加え牛豚の合い挽き肉に練り込んでいるという。
ハンバーグは毎朝、40~50食分を用意。「練った肉だねを成形し、一旦フライパンで焼いた後、提供する前にオーブンで焼いています。ちなみにメンチとロールキャベツも同じ肉だねです。でも、やっぱりそれぞれのメニューにファンがいて、『オレは絶対ハンバーグ』とか『メンチしか食わない』って人がいますねえ(笑)」と裕丈さん。
筆者にはハンバーグに目玉焼きを乗せてくれる店は優良店、という信条がある。調理工程を見せていただきながら、心の中で「ああ、目玉乗せちゃってるなあ……」と小躍りしたのは言うまでもない。いや〜、おいしそうだ。さっそくいただきまーす!
まるでパテのようにとろりとしてやわらかい食感。それでいて、ごろっとした玉ねぎはやわらかく甘みがあるのだが、シャクシャクとしたセンイも残っていていい食感だ。
ははーん、このとろりとした食感はタマネギがたっぷり入っているからだな、と予想していたが、裕丈さんいわく「クリームコーン、醤油、ワイン、ナツメグ、ガーリックパウダー……その他モロモロも入ってます」とのこと。おお〜、凝っている! 少し酸味が強めのデミグラスも合う。ごはんが進むなぁ。
もう少し食べられるなら、プラス料金でランチにある唐揚げや目玉焼きの追加も可能だとか。
マカロニとポテトのサラダやシャキシャキの野菜サラダも残さず完食。舌に残るデミグラスソースの心地よい酸味の余韻を楽しみながら、ホットコーヒーを堪能した。
新橋6丁目の家具職人が一晩で有楽町界隈の映画館や劇場の椅子を張り替える神ワザ
取材を終えて雑談をしていたら、2代目店主の健太郎さんがふらりと店にやってきた。せっかくなので新橋生まれ、新橋育ちのお2人に昔の新橋について尋ねてみた。
「最寄りは御成門駅だけど、2014年にマッカーサー通り(環状2号線・新虎通り)ができるまでは新橋からここまでまっすぐ来られたんだよ」と裕丈さん。今でも新橋駅からは徒歩10分ほどだが、大通りを横切らなければもっとスムーズに来られたかも。マッカーサー通りを境目に街の雰囲気もガラリと変わる。
「この辺はポツポツと個人経営のパン屋さんがあったり、昔ながらの印刷屋さんや町工場も残ってる。だけど、僕らの卒業した小学校は閉校になってしまいました」と話す。
健太郎さんはさらに時を遡って、新橋キムラヤの様子を語ってくれた。
「うちがあった新橋1丁目は現在の日比谷シティの延長線上で、僕が子供の時は、今の日比谷シティのところがNHKだったの。戦争直後その横には外務省もあったし、三井物産とか大きい会社も結構あったんですよね」。
健太郎さんはさらにこう続ける。
「当時から新橋駅前周辺2丁目、3丁目は今と同じ飲み屋さん街みたいな感じで花柳界もありました。4丁目は大企業のお妾さんが小料理屋をやってた街で。5、6丁目、今は7丁目がなくなっちゃったけど、あのあたりは芝の家具屋さんの街だったんです」。
6丁目といえばまさにこの店周辺のエリア。どことなく落ち着いた雰囲気や、まだ町工場がチラホラみられるのはその名残だったのだ。
「僕らがよく映画を見ていた昭和30年代から40年代、有楽町界隈には日劇、日比谷映画、テアトル映画や有楽座があって。それから松竹と東劇とセントラルもあった。この劇場の客席の椅子を一晩で張り替えられるのもこの新橋だった。5、6丁目の家具屋さんたちが、映画館の椅子の頭のところについているカバーの張り替えをやる技術を持っていたんですよ」。
映画や観劇が全盛だった頃、いったい何千、何万の椅子があったのだろうか。代々この土地に暮らすお2人の話により新橋の新しい一面を知ることができた。オフィス街で働く人たちを代々癒やしてきた『珈琲 メルシィー』はまるで都会の宿木のような存在。疲れたらここでゆっくり羽を伸ばそう。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=パンチ広沢