「亀の子さま」

昔々のある日のこと。その日の本牧海岸(別称・八王子海岸)では魚が取れず、漁師が引き上げたのは小さな一匹の亀の子でした。

漁師は亀の子を船底に放り出して家に帰り、次に停泊中の船から亀の子を見つけたのは浜で遊ぶ近所の子供たちでした。

子供たちは亀の子を投げたり蹴飛ばしたりして、ついには死なせてしまいます。

その夜は嵐でもないのに天気がひどく荒れ、浜辺の近くの岬が土砂崩れを起こし、死んだ亀の上にも土砂が降り積もりました。

これはあの亀のたたりである。そう感じた村人たちが亀の子を供養しようと土砂から掘り起こすと、亀の子は石になっていました。

亀の子をかわいそうに思ったひとりの老女が石をなでると、不思議なことにそれまで彼女が患っていた喘息の症状が嘘のように消え去ったのです。

やがて神社に祀られた亀の子石は「亀の子さま」と呼ばれるようになり、咳に苦しむ人々がほうぼうから亀の子石を撫でるために訪れるようになりました。

フィールドワーク①亀の子石神社を探して

本牧には亀の子さまを祀った『亀の子石神社』があるそうなので、実際に訪れてみることにしましょう。

まずはJR根岸駅からバスに乗り、本牧を目指します。

バスを降りたら、国の重要文化財を有することで有名な庭園「三溪園」方面へ5分ほど歩いていきます。

周りは穏やかな空気の漂う住宅街。行き交う車もそこまで多くなく、三溪園に向かう人がぽつりぽつりと見られる静かな場所です。

しばらく歩くと「亀の子さま」に到着。道路脇にひっそりと鳥居と祠が佇んでいます。

神社脇の説明パネルにはざっくりと「亀の子さま」の由来が書かれています。

「いつの頃からかこの亀の子石はのどを守る神、特に百日咳に効験ありとして信仰され(中略)この神様からたわしを借りてのどをこすり、また小児の食した茶碗をこのたわしで洗うと不思議に咳が治るといわれている」

由来の説明によると、咳やのどの不調の際に亀の子さまからたわしを借りて祈願し、それが治るとたわしを倍にして返礼するのが慣わしだそう。

御神体であるはずの亀の子石そのものは見当たりませんでしたが、亀の子さまの碑のもとには沢山の亀の子たわしが奉納されています。

その様子は亀の子たちがのんびりと甲羅干しをしているようで、なんだか可愛らしい光景でした。

フィールドワーク②かつての本牧海岸を歩く

民話に登場する「本牧海岸(八王子海岸)」は昭和43年に埋め立てられ、現在は本牧市民公園・本牧臨海公園になっています。

亀の子石神社からそこまで遠くないので、こちらも見に行くことに。

道の脇にひっそりとある階段を上がって公園へ向かいます。

階段と急な坂を登りようやく本牧臨海公園へ到着。園内に入り、さらに坂を登ります。

ひらけた場所に出ると、首都高速湾岸線の向こうに根岸湾が見えました。

今立っているこの場所のすぐ下が海だったことを想像してみようと思いましたが、全くイメージすることができず……。ただ静かに海を見つめてぼんやりとしてしまいました。

園内には本牧海岸の歴史について触れているパネルも。

埋め立て工事が始まる前、三溪園の裏手の海岸では潮干狩りが盛んに行われていたそう。

今回ご紹介している「亀の子さま」の話の中で登場する本牧海岸が、かつて確かに存在していたことがわかります。

調査を終えて

亀の子石神社の「亀の子さま」と、今は存在しない本牧海岸。

時代の流れで変わり続け、もう二度と見ることができなくなった景色も、こうして伝承として現代まで伝わっている。

現在私たちが目にしている当たり前の風景も、いつか変化していくのでしょうか。

100年、200年、300年後、それよりもっと先の未来にいる誰か。

その誰かが、失われた過去の風景を想像することすらできず佇む現在の自分のように、現代に想いを馳せることがあるのかもしれない。

それはとても尊く、とても奇妙なことのように感じます。

坂を降りながらそんなことを考えて、最後にもう一度振り返り、海岸だった場所に目を凝らしました。

取材・文・撮影=望月柚花