八百屋お七

八百屋お七という女性の人生については諸説ありますが、ここではその中のひとつとして、江戸前期の見聞録『天和笑委集』でのお七の生涯をご紹介します。

八百屋お七とその家族は、1683(天和2)年の天和の大火によって店と住む場所を奪われ、一家で正仙院という寺院に避難しました。

正仙院で避難生活を送る中で、お七は寺の小姓である生田庄之助(吉三郎)と恋仲になります。

しかしやがて店は建て直され、お七一家は寺での避難生活を終えることに。

「恋人と離れ離れになってしまった」と庄之助への思いは日増しに募り、お七は「もう一回自宅が燃えればまた庄之助の近くで暮らせる」という一心で自宅へ火を放ちます。

幸いにもそれはボヤで済みましたが、江戸では放火は極刑。

お七は放火犯として捉えられ、鈴ヶ森刑場で火刑(火炙りの刑)に処されました。

お七の恋人の名前は様々で、この『天和笑委集』での名前は「庄之助」となっていますが、井原西鶴の『好色五人女』などを含む作品では「吉三郎」とするものが多く見られ、お七と恋人の比翼塚にも「吉三郎」と記されています。

フィールドワーク①八百屋お七ゆかりの地

目黒区の「お七の井戸」や文京区・円乗寺「八百屋お七の墓」など、東京都内にはお七ゆかりの地がいくつかあります。

目黒区にある「お七の井戸」はお七本人が使ったわけではなく、恋人である吉三郎が出家し、お七の供養をする際にこの井戸の水で身を清めたとされている場所です。

文京区・円乗寺の「八百屋お七の墓」はもともとは1683(天和3)年に亡くなった法名妙栄禅尼という女性のお墓で、後に歌舞伎役者の五代目・岩井半四郎が「お七の墓」として墓石を追加したそう。

しかし、お七の墓所についてはさまざまな視点から疑問や考察が生まれ、現在も議論がなされています。

今回は、東京都内に存在するいくつかの八百屋お七ゆかりの地から、文京区本駒込にある吉祥寺を訪れました。

説明板を見ると、この周辺は昔は駒込村の農地で、江戸時代に入ってから大名の下屋敷になった歴史が記されていました。

1657(明暦3)年の明暦の大火の後、もともとは水道橋にあった吉祥寺はこの地に移り、やがて一帯は岩槻街道に沿う形で門前町屋として開かれたとのこと。

江戸時代、この吉祥寺には檀林という僧侶の学問所があり、常に1000人ほどの学僧が学んでいたそう。

その檀林が、現在の駒沢大学に発展したとされています。

1869(明治2)年に吉祥寺門前町と吉祥寺境内をまとめて駒込吉祥寺町とし、その町名は1966(昭和41)年まで続きました。

吉祥寺の境内にはお七と恋人・吉三郎の比翼塚があるそうなので、行ってみることにします。

フィールドワーク②お七と吉三郎の比翼塚

比翼塚(ひよくづか)は、仲睦まじい男女を表す「比翼」という言葉からわかるように、愛し合って死んだ男女を弔う塚のことを指します。

そのほとんどは悲恋と共に伝わることが多く、古事記の中にも記載が見られ、江戸時代まで続いたとされています。

お七と吉三郎の比翼塚は、文学愛好者によって1966(昭和41)年に吉祥寺の敷地内に建立されたものだそうです。

一緒になることができなかった二人を、死後一緒に弔う。

お七と吉三郎の比翼塚に手を合わせていると、悲しく切ない気持ちになると同時に、これは救いであると思えるような、不思議な気持ちになりました。

調査を終えて

「八百屋お七」は創作の題材として扱われることが多く、その上明確な史料がほとんど存在しないお話でもあります。

実在したお七や吉三郎の人生の詳細、お七の犯した放火と、その後の火刑などは明らかになっていません。

しかしたとえ全てが創作だったとしても、吉三郎を愛したお七の想いと、若さゆえの未熟さ、そして好きな人と添い遂げることができなかった悲しみを思うと、同じ女性としてぐっと込み上げるものがありました。

取材・文・撮影=望月柚花