勘違いが起こした悲劇『守山崩れ』

家康殿の時代の徳川家、もとい松平家は今川家に従属する非常に小さな勢力であった。しかしながら、先ほど紹介した清康殿の時代には三河を治め、更には尾張にて手を伸ばそうかとするまで大きな勢力を持っておったのじゃ。

そんな時に起こってしまったのが此度紹介致す『守山崩れ』という事件、

清康殿が名古屋市守山区にあった守山城を攻めておる時に起こったことからその名がついておる。

しかもこの事件、家臣による勘違いで起こってしまったのじゃ……

家臣が主君を勘違いで討ち取ってしまった未曾有の事件、何故起こってしまったのか。

それは当時の三河を取り巻く血縁関係のもつれが元となっておる。

此度は登場する人物が多くなるで、わかりやすい様に相関図を用意いたした!

此れを見ながら読み進めるが良いぞ!

そもそも家康殿や清康殿の松平家は三河の安祥、今の安城を治めておった。その後に岡崎を治めておった岡崎松平家を破って岡崎を新たな拠点と致し、のちに家康殿の故郷となるわけじゃ。

どうじゃ?意外な話であろう!

岡崎を手に入れた清康殿は東三河にも進出し、後に長篠の戦いの舞台となる長篠城や田峯城を手に入れて三河一国を実質支配するまでの勢力となっておった。

じゃが、そんな清康殿をよく思わないものがおった。

その者は名を松平信定殿と申して、松平家の庶流桜井松平家の当主で、清康殿の叔父にあたる人物じゃ。信定殿はかつて松平本家の当主の有力候補であったことから、新進気鋭の活躍を見せる甥の清康殿を面白く思っていなかったのじゃ。

そんな中、三河を掌握した清康殿が次に目指すは織田家が治めておった尾張国であった。織田家は美濃の斎藤道三様と対立を深めており、その隙をつき攻め入ったのじゃ!!

今の日進市にあった岩崎城や瀬戸の品野城など、織田家の居城を次々に落とし、勢いに乗って守山城を攻めるべく陣を張った。

 

じゃがこの陣中にて家臣の阿部正豊によって暗殺されてしまったのじゃ。

 

陣中にて起きたちょっとした騒ぎを聞いた正豊殿が「清康様が我が父を粛清した」と勘違いし、仇討ちとして討ち取ったと伝えられておる。

突拍子もない勘違いだと感じるであろう。

じゃが守山崩れが起きる少し前から、正豊殿の父、阿部定吉殿が織田方に寝返るという噂が松平家臣団の中で流れておった。

定吉殿はその噂を知り、万が一、己が粛清された時の為に子の正豊殿へ身の潔白を示す誓紙を託しておったのじゃ。

守山崩れはそんな中での出来事であった。

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この様な背景を知ると、少しばかりは正豊殿が勘違いしてしまった意味がわかるではなかろうか?

まさに悲劇の事件であると言えよう。

理由はどうであれ主君を殺めてしまった正豊殿はその場で他の家臣に討ち取られてしまう。

しかし、誠に辛いのは己がために息子が主君を討ち取ってしまった定吉殿であろう。

責任をとって自害しようとするが、清康殿の子で家康殿の父、広忠殿にこの後も家臣として仕えて欲しいと説得され仕え続けることとなった。

これは広忠殿の心の広さに感服致す話であるわな!

なぜ寝返りの噂が流れたのか?

さてこの事件の発端となった、阿部定吉寝返りの噂。

何故この様な噂が流れておったのであろうか。

噂を流したと考えられる者に先に紹介した松平信定殿の名が挙げられるであろう。

この者はかねてより清康殿と不仲であった上に敵対する織田信秀様と縁戚になるなど、不穏な動きを見せていた。故に信秀様と組み、清康殿を追い落とすためにこの様な手を打ったのではないかと言われておる。

事実、この守山崩れの直後当主の死による混乱に乗じて幼少の次期当主、広忠殿を追放し岡崎城に入場、実権を手に入れておるのじゃ。

守山崩れは親族間の不和が産んだ事件とも言えよう。

実権を握った信定殿ではあるが、広忠殿が今川家に協力を要請したことや、人望がなく家臣が離れていったことを理由に三年を待たずに岡崎をから退くこととなる。

因みに、追放されていた頃の広忠殿を支えたのは阿部定吉殿であり、恩を忘れずに松平家に尽くしたそうじゃ。

加えて、嫡子が主君を討った咎(とが)により後継を作らず、定吉殿の代で阿部家は途絶えておるとも聞いておる。

守山の地へ

以上が此度の守山崩れの大まかな流れである。戦国の初期に起きた大事件の話はいかがであったかな?

儂は、清康殿を討った正豊殿がその場で討ち取られ、事件の真相が霞の如く朧げになっておるなとも考える。

例えば信定殿の手の者が清康殿を討ち、濡れ衣を正豊殿に被せたのではないか等と数多の考えが浮かぶわけじゃ!

戦国時代はこの様な謎や、不思議な出来事が誠に多くある。

故にこの余白を想像し楽しむのも一興であろう。此度の戦国がたりを通して歴史のことをさらに楽しんでもらえたら嬉しい限りじゃ!

先にも申したが此度の事件の舞台となった守山城は名古屋市にある。

名鉄、守山自衛隊前駅から歩いて十分程、

少し小高い山になっておって良きところであるが故に、気になったものは一度訪れてみるが良い。

因みに守山崩れで正豊殿が清康殿を討ち取った刀が村正と言われておって、徳川家に災をもたらす妖刀と呼ばれるはじめのきっかけがこの時じゃ!

この村正の話はこれよりの戦国がたりでも触れるやも知れぬ!

覚えておくとより楽しめるであろう!

 

では、此度の戦国がたりはこれにて終い。

さらばじゃ!!

写真・文=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)