家臣すらも敵となった三河一向一揆

さて、この三河一向一揆が起こったのは1563年、桶狭間の戦いから3年が経った頃じゃった。

織田家は美濃を獲るべく、斎藤家と争っておって、信長様が居城を清州から小牧山へと移したのもこの年じゃ!

そして儂は織田家へ帰参を許され、日々槍働きに励む日々じゃった!!

 

本題の徳川殿はすでに今川家からの独立を果たしており、この前年の1562年には織田家と同盟を結んでおる。

然りながら、徳川家は西三河をまとめたに過ぎず、東三河や奥三河は依然として今川家やその他の国衆が支配をしておった。

徳川家としては、三河を統一して今川家へ対抗できる地盤固めを早急に行いたいところではあったのじゃが、なんせ独立したてで大規模な軍事行動をとる余裕がなかったのじゃ……。

故に税や年貢を多く集めねばならなかった。

そこで起きてしまったのが此度の大事件なのじゃ。

不入権とは?『寺』は生活の一部だったのだ

この話をする前に皆に頭に入れておいて欲しいことがある。

それは戦国時代と現世では寺社の役割が大きく異なっておることじゃ。

現世の寺社といえば、歴史を感じる荘厳な佇まいや観光地としての印象が強くあると思う。

じゃが、我らの時代の寺というのは軍事施設としての役割と農民たちの交流の場として生活の中心となっていた。

 

現世の言葉に直せば、自警団のいる地方自治体と言ったところであろうか。

 

此度の一向一揆の中心となったのは、“三河三ヶ寺”と呼ばれる三河で大きな勢力を持っている三つの寺院であった。

この三ヶ寺は寺の中の町、寺内町ができるほどの大きな寺で、この寺内町は岡崎城下を上回るほどの賑わいを見せていたと聞いておる。

上で説明した通り、まさに地方自治体と言えるほどの存在であったわけじゃ。

三河統一を目指し、この三ヶ寺の豊かさに目をつけて圧力をかける家康殿と、己が利権を守ろうとする三ヶ寺の対立は深まっていった。

そんな中で徳川家臣が三ヶ寺が一つである『本證寺』のなかで無法者を捕縛する事件が起きた。

これを守護不入権の侵害だと怒った三ヶ寺はついに武装蜂起に至るのじゃ!

守護不入権というのは、土地の領主が寺院の内部事情に介入しないことを認めた権利で、家康殿の父広忠殿が三ヶ寺にこの権利を認めておった。

蜂起した一向衆の勢いは凄まじく、徳川家臣からも離反が相次ぎ一時は岡崎城を包囲される窮地に立たされた。

離反した家臣の中には後に家康殿の腹心で大河ドラマ『どうする家康』でも活躍が描かれておった本多正信殿や三方ヶ原の戦いで家康殿の身代わりとなって討死する夏目吉信殿など、後に忠臣の中の忠臣となった者たちが参加しておった。

更にはこの混乱に乗じて様々な勢力が徳川家へ攻勢に出た。

そのうちの一人が、桜井松平家である!

桜井松平家とは、前回の戦国がたりにて紹介した、守山崩れに乗じて徳川家を乗っ取ろうとした松平信定殿の家じゃ。

三河一向一揆の頃には信定殿の孫が当主となっておったが、代が変わっても主家に対して反抗を続けていたんじゃ。

他にも吉良家や今川の残党なども加わって一向一揆はおよそ半年の間続いた。

大規模な勢力となった一向衆に始めは苦戦を強いられる家康殿であったが、離反した家臣団は主君に弓ひくことに呵責を感じ、家康殿が戦場に参ると逃げ出す者もいたと聞く。

さらに集結した戦力も指揮をとれるものがいなかった為に統率が取れていたとは言い難く、今川、吉良、松平も協力することもなくそれぞれが別の行動をとっておったが故に次第に勢いを無くし、鎮圧されることとなった。

 

苦しい戦いではあったが、三河一向一揆は徳川家にとって大きな利益を生み出した戦であったと言えよう。

三ヶ寺が持っておった利権と危険な一向衆の解体に成功し、離反した家臣の帰参を許したことで忠誠心の高い家臣団を作ることも叶った。

まさに雨降って地固まる、この危機を乗り越えた家康殿は三河統一、そして今川家との戦いに向けて邁進して行くこととなる。

そもそも一向衆って?

さて、三河一向一揆について解説して参ったが、一向一揆並びに一向衆とは何か、あまり良く分かっておらぬ者も多いのではなかろうか。教科書や大河ドラマ、漫画で聞いたことはあるけれど、ただの一揆とはどう違うのか、何故起こるのかなどと疑問もあろう。

そこで次回の戦国がたりでは戦国時代の一向衆について簡単に分かりやすく説明して参ろうではないか!楽しみにしておってな!!

此度の戦国がたりはこれにて終い。

さらばじゃ!!

文=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)