ニッポン放送は深夜1時からオールナイトニッポン(以下、ANN)の1部。3時から2部。TBSラジオは深夜1時からスーパーギャングを、それぞれ日替わりのディスクジョッキー(今は「パーソナリティ」と呼ぶ)で放送していた。
月曜日。中島みゆきのANNを初めて聴いたときは自分の耳を疑った。中島みゆきはNHKの「プロジェクトX」以降、「頑張って生きる人を励ます国民的応援歌を歌う人」みたいな感があるが、当時は「暗いシンガーソングライター」というイメージが定着していた。だから周波数を1242に合わせたとき、陽気な声が聞こえてきて、思い描いていたものと違いすぎて戸惑った。ハガキを読まれた人には中島みゆきとの握手券がもらえた(しかしどこで中島みゆきを見かけることができるというのか)。自分の歌の替え歌もよくやっていた。シングル「見返り美人」のサビ部分「♪アヴェ・マリアでも呟きながら~」のところを、「♪竹内まりやでも結婚できたのに~」という歌詞を送ってきたリスナー(80年代にはこんな言葉はなかった)には感心した。
同じ月曜日、TBSラジオは景山民夫だった。まだ直木賞作家になる前。ここでは書けないようなブラックジョークが多かった。
火曜日。ANN1部はとんねるず。同級生はそちらばかり聴いていたが、あまりにも意地悪な内容や差別ネタばかりで嫌いだった。捻くれ者なので西川のりおのスーパーギャングを聴いていた。
水曜日。ANN1部は週刊プレイボーイの名物編集者・小峯隆夫。東海大学なのに集英社に入れたのは、入社の面接でミリタリーファッションで決めたという記事を読んで、さもありなんと思った。とにかくデタラメな人だった。ジェームズ・キャメロン監督と仲良くなって『ターミネーター2』にワンカット出演している。序盤のシュワルツェネッガー演じるT800と、T1000がエドワード・ファーロングを巡って通路で奪い合うシーンで、巻き添えにあって撃ち殺される役。
小峯は1年ぐらいで終了するが、のちに水曜2部で復活する。小峯隆夫のANNを宣伝する企画コーナーがあって、無茶なリスナーが、野球場の迷子の案内で「小峯隆夫のANN様を捜しております」とアナウンスさせようとして関係者にムッとされて、それでもウグイス嬢に「小峯隆夫様を捜しております」とコールさせる一部始終を流した。今だったら世間からバッシングされて番組は強制終了だろう。大らかな時代だった。
水曜日の続き。小峯隆夫から小泉今日子に変わったがまったく聴かず、コサキン(小堺一機と関根勤)のスーパーギャングが鉄板だった。くだらなすぎて最高だった。覚えているネタが多すぎてここに書ききれないぐらい。先日マスコミ試写会でたまたま小堺さんが隣の席になり、「コサキン大好きでした!」と伝えられて良かった。
水曜日のANNがキョンキョンから大槻ケンヂに変わるとよく聴いた。当時筋肉少女帯は世に出たてで、抜擢の感が強かった。今でこそ日本のロックミュージシャンでいちばんおしゃべりが上手いオーケンだけど、テンパってばかりで半年で終了した。
水曜2部。伊集院光が始まる。まったくの無名だった。第1回、伊集院がいちばんはじめに言ったギャグを覚えている。「♪オーソレミーヨ」の替え歌で、「♪おーそれざんのイタコ」と激唱したのだ。あれから30年が経過し、伊集院はいまやTBSラジオの顔になっている。
そして木曜日。なんと言ってもビートたけしだ。真夜中の学校だった。教師が教えてくれないことをここで学んだ。僕のプラマイ10歳で「あなたがいちばん影響を受けたラジオ番組は?」という投票を実施したら、間違いなくたけしさんが1位だろう。高田文夫の笑いの合いの手。のちにそれを松村邦洋は「バウバウ」と名付ける。天才。
たけしさんは王だった。フライデー編集部襲撃事件より前、付き纏う記者をボコボコにした話や、当時ニッポン放送「ヤンパラ」(月~木曜、22~24時)において「恐怖のヤッちゃん」「ヒランヤの謎」など、次々と番組企画をヒットさせていた三宅裕司に対して、「“俺の笑いはたけしと違う”? ふざけるな。てめえと一緒にするな!」と辛辣無比にこき下ろしたこともあった。その剣幕に怖くなって、聴いているこちらもラジオの前で正座してしまった。
軍団同士であわや殺し合いになったので公開裁判をやったり、うら若い弟子にネタを披露させたりもした。生放送で、殿の前でほとんど声も出ないコンビがいた。「あーあ、こいつら全然ダメだな」と思った。のちの浅草キッドだった。ふたりはその後月曜2部を担当。ANNの次は土曜の夜に「浅草キッドのちんちん電車」をやる。思い入れがありすぎるふたり。それだけに現在、博士が健康不安定で無期限休養、玉ちゃんはオフィス北野を辞めてフリーになり、浅草キッドが実質解散状態になっていることが悲しい。
たけしさんだけでこのページが埋まってしまうので早々に切り上げよう。金曜日。大江千里のスーパーギャング。千里はのちにANNもやるが、そっちでは下ネタを解禁した。別人みたいだった。
土曜2部は電気グルーヴ。最高だった。たけしのANNを超えるかもしれない。たけしが最高の教師だとしたら、石野卓球とピエール瀧は最凶の兄貴だった。
土曜の1部をユーミンがやっていた頃、エンディングテーマに当時ユーミンがイチオシのバンドのバラードがかかった。「♪ベイビ、ベイビ、ベイベー、ステイ・ウィズ・ミー あなたさえいれば~ ベイビ、ベイビ、ベイベー、ステイ・ウィズ・ミー 何もいらないさ~」。フェイドアウトしてしめやかに終わる。3時の時報。瀧の第一声、「うんこ~っ!」。思わずガッツポーズした。ふたりのトークは超絶面白かったし、ゲストにピチカートファイブと細野晴臣が来た回は神回。ここで書き起こしていたら一冊の本になってしまうので、ネットから音源を拾って下さい。
他にもANNは、デーモン小暮(現在はデーモン閣下)、古田新太も愛聴した。真夜中の共犯関係を結んだ気になれた。翌朝は眠くて、授業なんてまるっきり頭に入らなかった。
そして忘れずに記しておきたい。同じ頃、TBSラジオの平日月~金曜、深夜12時に「サーフ&スノー」があった。タイトルはもちろんユーミンから。TBSアナウンサーの松宮一彦が新旧洋邦問わず、素敵なポップミュージックをかけてくれた。AMなのに曲を一番だけでなく、アウトロまでかけることを番組の信条としていた。「秋元康? ああ、あのデブね」と、局アナとは思えない歯に衣着せぬ発言も多かった。番組は次第に当時盛り上がりを見せてきた日本のロックバンドが中心にかかった。リスナー投票で、僕と3歳上の兄でTMネットワークの「セルフコントロール」をハガキ100枚送ったこともある。もちろん名前を読まれた。ああ、気恥ずかしい過去。
「サーフ&スノー」は10年以上続いた。松宮一彦はTBSを辞めた翌年、自ら命を絶った。今でも彼の声が耳に残っている。
社会人になってからは深夜放送を聴かなくなった。深夜放送を卒業するときは思春期の終わりなのだろうか。たまに伊集院光の月曜深夜1時、TBSラジオ「深夜の馬鹿力」を聴く。伊集院の思春期は続いているようだ。それがまぶしく見えるときもあるし、しんどそうだなと感じるときもある。ひとつ言えるのは、これからの僕がラジオ自体を卒業することはないだろう。
『散歩の達人』2019年2月号