豊かな大地と複雑な歴史が生み出した料理
2022年夏、ウクライナのボルシチがユネスコの無形文化遺産に緊急登録された。戦争によってボルシチの文化が失われる可能性がある、というのが登録の理由だ。
今までずっとボルシチはロシア料理だとばかり思っていたからエラく驚いた。
「これはロシアやウクライナでも知らない人がいるんですが、ボルシチのルーツはウクライナにあります。現地の文献を丹念に調べるとわかります」
と解説してくれたのは、練馬区でユーラシア大陸を中心とする料理&文化を紹介し、新たな産業を創造する拠点『ユーラシアキッチン』を主宰する粟津彰治・葉子さん夫妻だ。
種類豊富なボルシチ。中には緑や黄色のものも
「そもそもボルシチは“酸っぱいスープ”という意味。主原料はスイバという酸味の強い野草でした。ボルシチといえば、ビーツの赤色を想像する人も多いと思いますけど、ウクライナでビーツ栽培が広く普及したのは14世紀。ですから、それ以前のボルシチは緑色だったはず」
粟津夫妻によると、ほかにも白や黄色のボルシチもあるらしいが、まずは実食すべしと吉祥寺の『Babusya REY』へ。
「ボルシチはそれぞれの家で味も違います。日本人のお味噌汁みたいなものです」
流暢な日本語で教えてくれたのはビクトリアさん。なるほど。たしかに何軒か食べ歩くと、店ごとに味も違うし、使われている素材も違うのがわかる。これがロシアのボルシチとなれば、また印象もかなり異なるようだ。ウクライナ人に言わせれば、ロシアのボルシチは薄味&具材も少ないそうで、
「私たちが食べたあとの鍋にお湯を入れたらロシアのボルシチができる」
らしい。まぁ、この辺は口を挟まないようにするが、ボルシチ以外にも有名なウクライナ料理はあるのだろうか。
「それはなんといってもサーロ(豚肉の塩漬け)です。スライスにしてゴルリカ(ウクライナのウォッカ)のおつまみとして食べたり、ボルシチの隠し味にしたりします。とはいえ、イスラム教徒が多い南部では豚肉は食べませんし、ウクライナ料理は地域によって本当に特色が違うんです。このあたりのことは、歴史を紐解かないとなかなか理解しづらいかもしれません」(粟津さん)
数百年かけて東西のさまざまな文化が融合
ウクライナという国の礎になっているのは、9世紀にできたキエフ大公国(別名:ルーシ)だ。ロシアや隣国・ベラルーシの名もこのルーシに由来するが、その歴史は他国による征服の歴史でもある。13世紀のモンゴル帝国の進攻(いわゆるタタールのくびき)を皮切りに、長くポーランドやソ連の配下にあった。つまり、1991年に独立を勝ち取るまで、ウクライナの土地と人々は実に数百年もの間、さまざまな国に占領されてきたのだ。ウクライナ料理が東西の多くの文化から影響を受けてきたというのもうなずける。
「ウクライナ料理って、見た目はシンプルで素朴なものが多いんですが、大地の恵みを活かした滋味深い料理なんです」
そう語るのは『Betterave Bistro Jiro』の飯島二郎オーナーシェフ。
「“ヨーロッパの穀倉地帯”とも呼ばれるウクライナは土壌が豊かで、季節の野菜はおいしいですし、乳製品も抜群に旨い。そんなところが戦争で荒廃していくのを見るのは辛いです」
取材をする中でウクライナという国のルーツが想像以上に複雑であることを知った。親戚にロシア人がいる人も珍しくなく、父親がロシア人という人も何人かいた。料理が多くの文化の影響を受けているように、そこに住む人々の背景もまた複雑で多層的なのだ。
我々にできることはあまりないけれど、これから何度でもウクライナ料理を食べに行こうと思う。
ウクライナ料理に必須!?の3食材
ディル
さわやかな香りのハーブ。『Babusya REY』のボルシチにもどっさり!
スメタナ
ウクライナ人が大好きな発酵乳製品。サワークリームで代用も。
ビーツ
高栄養価のスーパー食材。テンサイ、砂糖大根と呼ばれるビートとは別物。
『Babusya REY(バブーシャ レイ)』[吉祥寺]
東部のボルシチは牛肉出汁?ウクライナのおばあちゃんの味を堪能
現役キックボクサーの小笠原裕典(ゆきのり)さんと妻・ビクトリアさん(ドネツク州出身)が、故郷から家族を呼び寄せ、2022年4月にオープン。週末&祝日限定でウクライナ東部の伝統的な家庭料理を提供する。
「ウチはボルシチやそのほかの料理もボリューム満点。しっかりした濃いめの味付けが特徴です」(ビクトリアさん)。
ちなみに店名にもある「バブーシャ」とはウクライナ語で「おばあちゃん」の意味。店の料理は、家族と一緒に避難してきたおばあちゃん秘伝の味だ。
『Bettarave Bistro Jiro(ベトラーヴ ビストロ ジロー)』[代々木公園]
西部のボルシチは豚肉出汁?現地仕込みの本格的な味で勝負
フレンチ出身のオーナーシェフ・飯島二郎さんは、2002年から3年間、首都キーウの日本国大使公邸で料理長を務めた人物。
「料理も人も素晴らしく、最高の3年間でした。いつか向こうでお店を開くのが夢です」。
現地のレストランを食べ歩き、大使公邸の専属スタッフの意見を聞いて飯島さんが体得した本場の料理の味は、日本在住のウクライナ人も虜(とりこ)にする本格派。素材を活かしたシンプルな味付けなのに滋味深い。ウクライナ料理のコース5500円は前日までの要予約。
【ウクライナと日本が融合した創作料理店も!】
『スマチノーゴ』[虎ノ門]
避難民のスタッフたちが働く“憩いの場所”
2022年9月にオープンしたばかりの『スマチノーゴ』は、ウクライナから避難してきた人たちが働く店だ。中にはひと月以上かけて日本に辿り着いた人もいるし、家族を祖国に残してきたままの人もいる。皆それぞれ辛い思いをしているはずだが、店内には笑顔があふれ、むしろこちらが元気づけられる。
提供する料理のコンセプトは「和食とウクライナ料理の融合」だ。京都の『割烹恵比寿』監修のもと、和風の味付けをベースにしたウクライナ料理が堪能できる。親日家で有名なセルギー・コルスンスキー駐日ウクライナ大使も太鼓判。12月にはオリジナルのクリスマスメニューも登場する。
取材・文=芹澤健介 撮影=井原淳一
協力=ユーラシアキッチン(www.facebook.com/groups/217226966926903/)
『散歩の達人』2023年1月号より