新橋5丁目の街角にあるたばこ好きの憩いの場
JR新橋駅烏森口改札を出て、サラリーマン御用達の居酒屋が立ち並ぶ街並みを真っすぐに突き抜けていくと、3~4分ほどで広い通りに当たる。その道を横断すると街の様子が変化し雑居ビルが立ち並ぶ風景となる。
ただそこにも飲食店がポツポツと存在する。『cafe VAN』もその1つ。広い道路を渡って2分ほど歩くと、街の一角に忽然という感じで現れる。
近づいてくと、お店の外にも小さなカウンターがあり、ここでコーヒーとたばこを楽しむ数人のお客さんの姿が見える。
「さすが創業40年を超える老舗カフェ」と、その昭和な喫煙風景を横目で見ながら、木目の扉を開け店内に入っていくと、そこに広がるのは意外なほど明るくカラフルな空間。壁はアイボリーに統一されているものの椅子は全て赤。そこに小さな白いテーブルがいくつか置かれている。10人ほど入ればいっぱいになるような小さくて心地よい空間である。
妻のすすめで老舗のカフェを引き継ぐ
カウンターの向こう側で働くのは店主の熊谷直人さん。まず、老舗にかかわらずカラフルで新しく見えるお店のことについて聞いてみた。
「もともと新橋に『cafe VAN』ができたのは1975年のこと。自分が生まれる前です。ここは新橋5丁目なのですが、新橋6丁目の方に大きな本店がありました。この場所はのれん分けした支店のような場所です。本店の方は6年ほど前に閉店して、今はここだけになっています」とのこと。
その本店のオーナーが高齢となり、店を誰かに引き継いでもらいたい、できれば長年働いてくれた店員さんか常連さんにという話があった。10年来、お店の常連であった熊谷さんの奥様がその話を聞き、熊谷さんにすすめたのがお店を始めるきっかけとなった。
「自分はもともと愛媛の警察の機動隊にいました。そのあと東京で暮らしたくて上京し、宅配の仕事をずっとしていました。筋肉系の仕事一途ですね(笑)。そこで同じ瀬戸内出身の奥さんと結婚しました」と熊谷さん。最も信頼する奥様が持ってきてくれた話ではあったものの、飲食業未経験の熊谷さんは、当然のことながら最初はずいぶん迷われたとのこと。
「自分はサーフィンをやっているのですが、大切な物事を判断する時には必ずサーフィンをやって波にもまれてすっきりした気持ちの時に判断するようにしています。お店についてもそうでした。すっきりした気持ちの時に『やろう』と思えたので決めました」と当時の様子を語ってくれた。
こうした経緯からお店を継ぐこととなったが、やはり本店の大きな店では負担が大きすぎるため、この5丁目の小さなお店を『VAN』として引き継ぐこととなったという。しかし「最初の1年は本当につらかった。資金を借り、備品をそろえ、人を雇い、思うようにお客さんが増えず、無理かなと思った時期もありました」と熊谷さんは率直に引き継ぎ当初の様子を教えてくれる。
お店の転機となった幸運の女神
しかしその後、お店は盛り返し、2023年で7年目を迎えた。その大きな転機となったのが、1人の人物との出会いであったという。
「杉谷遥果さんというシンガーなのですが、共通の知り合いの方が誕生日会をうちの店で開いたのがきっかけで、毎月うちの店で歌ってくれるようになりました。それ以降、たくさんのお客さんが店に来てくれるようになったんです。まさにウチの店にとっては、奥さんと共に幸運の女神と言える方です(笑)」と、巧みにノロケを交えながらその方のことを紹介してくれた。
杉谷遥果さんは実はとても有名な方。おなじみなところでは、あの「ちい散歩」のエンディング・テーマも歌われていた。今も1カ月に一度、このお店でミニコンサートを開いている。
「実はもう1人、お店に幸運を持ってきてくれている人がいます。杉谷さんの元マネージャーの小林ちひろさん。この方は今ヒーリングの仕事をされていて、クリスタルボール(ヒーリング音楽)の演奏と施術の会を定期的にうちの店で開いてくれています」とのこと。
マスターのやさしくて気さくな人柄に惹かれてさまざまな人が集まるぶん、どんどん正体がわからないお店になっていっているような気がするが、きっとその不思議な魅力に惹かれて店を訪れる人も少なくないのだろう。
「開店してしばらくたって瀬戸内の食材を使った料理を出していたのですが、ワンオペに無理が生じてきて、今は飲み物だけを提供させていただいています」とのこと。現在メニューの中心となっているのは、皆さんが煙草と共に楽しむ一杯のコーヒー。
店内でもテイクアウト用のカップで提供される形だが、味はその値段と手軽さからは想像できないほどの奥深さ。一口飲むと思わず「あー」と息が漏れるようなおいしさだ。これは愛煙家でなくてもたまらない。たぶんこの店のコーヒーを飲むことを毎日の習慣としている近隣の方々も多くいることだろう。
イベントの時にはお酒も提供している。「今はタバコが吸える場所が少なくなってきたので、タバコが吸えるお店ということでたくさんのお客様が来てくれています」と熊谷さん。
今日も、幸運の女神の歌が流れ、おいしいコーヒーと煙草が楽しめる小さくて暖かい空間の不思議な魅力に惹かれて、この新橋の一角にたくさんの人が集ってくる。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井誠