『地下鉄にのって』(1972年)
昔の電車内では大声が許された!?
吉田拓郎のバックバンドだった猫のヒット曲『地下鉄にのって』が発売されたのは1972年11月。その頃は電車内の状況も違っていたようだ。歌詞では「もっと大きな声で」という言葉が連呼される。電車の中が騒々しくて、大声じゃないと何も聞こえない。
それについてはネット上に面白い考察がある。「フォークソング「地下鉄にのって」と丸ノ内線の半世紀−あるいは、ぼくのときみの間にて」を読んで、なるほど。納得させられた。理由は冷房の有無だった。
確かにそう、思いだした。80年代になってもまだ、地下鉄では冷房車はまず見かけない。夏になるとすべての窓を全開にして走っていたのを覚えている。調べてみると、地下鉄車両すべてに冷房が完備されたのは1996年だという。
窓を全開にして走る地下鉄では、トンネルの壁に反響する車輪の音が車内にも響いて騒々しい。車内のアナウンスはもちろん、隣の人との会話も、かなり大きな声で話さなければ何も聞こえない。
この状況では誰も他人の会話など気にしないだろう。あちこちで大声の会話がされていたと思う。実際、自分も大声で話していたよなぁ。いまなら向かいの席に座る人々からも睨まれそうなくらいの音量で。
そんなことを考えながら地下鉄に乗っていると、車内アナウンスが新宿三丁目の通過を告げる。次で降りなきゃ。『地下鉄に乗って』の歌詞には「赤坂見附」「四谷」という駅名がでてくるから、私がいま乗っているのと同じ丸ノ内線で新宿をめざしていたようだ。
『あずさ2号』(1977年)
「アルプス」の意味が分からない……
新宿で地下鉄を降りる。昔は改札を出たところにある公衆トイレから、臭気が漂っていたものだが。いまは無臭。改装されて清潔な感じになっている。
それ以外のところでは、この地下通路は昔からあまり変わってないようだ。頭がつかえそうなほどに低い天井も変わらない。天井を見上げているうち、圧迫感で気分が悪くなるので前を向く……すると、あれ!? 他にも変わったとこが見つかる。
人通りは少なくなっていた。閑散としている。この通路は新宿駅の東西を結ぶ大動脈、大勢の人々が行き交っているはずなのに。朝夕の時間帯には、人の波に酔いそうになったものだった。
そういえば、ここで昔よく見かけた1人の女性のことを思いだす。首に「私の詩集」と書いたボードを下げて、柱を背にジッと前を見据えて立っていた。新宿駅を利用する人々の間ではそれなりに有名人だったと思う。
大勢の人の流れが押し寄せる狭い通路で、1人取り残されたように立ち尽くす姿が妙に目立って存在感があった。現在のように閑散とした地下通路ではどうだろうか。かえって目立たなかったりして。いまは彼女の姿も見なくなった。詩集を買っておけばよかったかな。何が書いてあったのだろうか。
地下通路から西口方面に向かって左手の階段を上ってJR新宿駅へ。階段を上がったらすぐにJR新宿駅があるはず……つい最近まではそうだった。しかし、いまはそこに東西自由通路が通っている。地下通路と比べると、それは路地と東名高速くらいに違う。広く明るい通路を大勢の人が行き交っていた。2020年にこれが完成してからは、新宿駅周辺の人流も激変したようだ。
東西自由通路は、JR新宿駅構内にあった北通路や東口改札付近のアルプス広場を大幅に削って用地を確保したもの。そのぶん駅構内は狭くなった。通路側に面して新設された改札を通って駅構内に入ると、そこにあるアルプス広場は「広場」ではなく、もはや「通路」になっていた。
新宿駅から信州方面に向かう夜行列車が発着した80年代頃は、週末の夜になると登山服姿でバックパックを背負った大勢の人々が、ここで仲間と待ち合わせしていた。あの光景を知っているから“アルプス広場”の名称にも違和感はなかったのだが。
そんな昔を知らなければ、いまも残る「アルプス広場」を見ても、
「ヘッ、何それ!?」
って、思うよなぁ。付近にあるトイレも「アルプス化粧室」って大きな表示がされている。こっちはもっと謎だわ。
また、当時の新宿駅からは昼間も信州方面に向かう特急列車が多く発着していた。
『あずさ2号』がリリースされたのは1977年3月のこと。この曲のイメージから、当時はまだ地方で中学生をやっていた私でも、新宿駅は信州へのゲートウェイといった認識を持っていた。
「新宿駅から8時ちょうどに発車する“あずさ2号”はない!!」
とか、同級生の鉄オタ君が鼻を膨らませて話していたのを思いだす。当時はその話が週刊誌やテレビでも紹介されていた。なんでもこの曲がヒットした翌年にダイヤ改正があって、新宿駅を朝8時に出発する松本行き特急は「あずさ5号」になったのだとか。
そんな話で世間が盛りあがるのだから、新宿駅=信州方面への特急発着駅っていうのは、当時は世間の常識として刷り込まれていたと思う。しかし、いまは駅構内で駅弁を売る店も見かけなくなり、新宿が長距離列車の始発駅というイメージはかなり薄れている。信州に行くのなら東京駅から新幹線に乗るのが普通だろうし。
「笑っていいとも!」(1982年~2014年)
お昼休みにウキウキしなくなった最近の新宿
東口の駅前に出てみる。巨大駅には不十分な小さい駅前広場、最近はこの一角に設置されたライオン像の前が待ち合わせ場所の定番なのだとか。ひと昔前は、そこから横断歩道を渡ったところにあるアルタ前だった。
『地下鉄にのって』や『あずさ2号』が流行っていた70年代にアルタはまだなく、広々していたアルプス広場や東口交番が待ち合せ場所の定番だったという。アルタができたのは1979年。それ以前は「二幸」という生活用品を売るデパートが建っていた。
アルタが開業した翌年には、超大型映像モニターの「アルタビジョン」も設置された。ここに設置されたのが日本初だったというから目を引く存在。たちまち新宿のランドマーク的存在になった。アルタ前に待ち合わせの人が増えたのはこの頃だろうか。
待ち合わせだけではない。アルタはファッションのショップに加えて、テレビの収録スタジオが入る複合ビル。アイドルを出待ちをするファンも大勢そこに立っていた。
1982年に「笑っていいとも!」が始まってからは、正午になるとアルタ前の風景が日本中のテレビに映しだされるようになる。番組のオープニングテーマ曲も、新宿駅界隈のご当地ソングと言えるか?
流れる曲を聴きながらテレビを見ていると、渋谷のハロウィンでいそうな格好をして立つ連中もよく見かけた。正午の時報とともに番組のオープニングテーマが流れ、アルタビジョンに周辺の様子が映しだされる。そこに自分たちの姿を見つけた時、新宿通りの歩道に集まった人々から大歓声があがる。平日の昼間からお祭り騒ぎ。それはいつも見慣れた風景だった。
さて、現在。時間はちょうどお昼時。駅東口から新宿通りを渡り、アルタ前に行ってみる。おバカな人々はまだいるのだろうかと、付近をウキウキウォッチング……あれ、誰もいない。まあ、当然か。
「笑っていいとも!」は2014年に最終回となり、その2年後にはテレビ番組を収録していた多目的スタジオもなくなっているのだから。待合わせ場所としての役目も金のライオンに奪われている。横断歩道を渡って、ここまで来る意味がない。アルタ前に立っている者は1人もおらず。エントランスや館内の店舗が見通しよく眺められる。出待ちの人々が歩道を占拠して、通り抜けることが難しかった当時からすると信じられない光景だ。
『新宿駅』(2014年)
高層ビル群もいまは、何てことない眺めに
アルタ前の歩道から西の空を見上げると、そこには聳(そび)える高層ビル群が見える。かつて“高層ビル群”と聞けば新宿を連想したものだけど。いまでは都内の各地、地方都市も高層のタワマンが建ち並んでいる。林立する高層ビル群は、新宿に限られたものではなくなった。
上京したばかりの80年代、このビル群をはじめて見た時は「すげぇ」とか思ったものだけど。いまはすっかり影が薄くなった感じ。ニコニコ動画でブレイクした神聖かまってちゃんが、2014年に発表した『新宿駅』冒頭の歌詞を思いだす。偉そうにしているわりに中身がない、と。冷めた感じで見られている。小物のモブキャラ扱い。
駅やその周辺の人の流れも、人が溜まる場所も時が経てば変わるものだ。風景も違って見えてくる。
新宿駅とその周辺では2047年まで様々な工事が予定され、駅の東西をオープンデッキで繋ぐ構想もある。そうなるとまた、いまとは色々なものが激変してそうだけど。その時にここに立てば、新宿の駅や街の印象はまた違ったものになっているかな。たぶん。
取材・文=青山 誠