汗だくで登った小山の頂上。低木に囲まれた観測所が現れた
観測所は見晴らしの良い場所にあるため、片島の小山の頂上に行かねばなりません。訪れた日は9月というのに初夏の陽気で、太陽はぐんぐんとのぼり、ギラギラと日差しが照りつけます。山道は全然険しくないので、ちょっとしたオリエンテーションの気分なのですが、よりによって大型フィルムカメラと三脚を担いできたため、なかなかな重さで登る羽目になりました。
クネクネと曲がる登り坂ですっかりと汗だくになりながら数十分。木影の先の日向に黒い物体が目に入ってきました。観測所の建物です。汗が引くのを待ちながらカメラの準備をしつつ、さて困ったなと悩みます。観測所は低木によって隠されるかのように、全容を見届けられません。
2階建てというのはすぐ判明するのですが、コンクリート製の壁面と窓の一部が望めるだけです。背後は木々が邪魔して行けそうにもありません。しばらく休みながら考えていると、観測所の方から声が聞こえ、何人か現れました。休日に訪れたこともあって他にも見学者がおり、遺構はちょっと賑やかです。余談ですが、現れたうちの1人の女性にいきなり声をかけられると、知人の元嫁さんでした(笑)。
どこかの街中でバッタリではなく、大村湾の頂上にある廃墟で、お互いに近況を語り合うとは。私が訪れる廃なるものには、ときおり変な出会いがあるものです。
気を取り直して観測所を見つめ直します。この建物が完成したのは大正6年(1917)。その後に改修されました。竣工時から鉄筋コンクリート造(RC造)だったとのことで、以前紹介した軍艦島の日本最古のRC造アパートと同時期の建物といえます。RC造黎明期の建物が山頂にあるなんて。建設時はどうやって資材を運んだのか、気になってきます。やはり人海戦術だったのか……。
低木をかき分けて観測所の前に立ちます。引きが取れない狭いスペースですが、見上げると2階部分がV字状に迫り出している面白い形状をしています。これが観測窓でした。でも、小山の頂上に建つちょっと小洒落た邸宅のバルコニー部分のような……。
いけない、ここでも江戸川乱歩的廃墟の情景を妄想してしまった。
ここは海軍の観測所。自分に言い聞かせます。
裏へまわると建物内へ入れます。とくに規制はしていない様子ですね。放置状態とも言えましょうか。昨今の廃墟は崩壊の恐れなどにより立入禁止処置が多くなってきましたが、この観測所は入れます。とはいえ、廃墟であることを忘れずに。
窓枠の木片で怪我をしたり、床面など気をつけましょう。
慎重に中へ入ります。むむ、がらんどうだ。元々は2階部分があったのだが、すっかり床面が落ちたか撤去されています。
観測所内はあちこち落書きがしてあるものの、元々の階段があった痕跡や部屋割りの痕跡が残っていました。いくつかの部屋があったのでしょう。そして観測窓は眺望を考えてV字状になっているのですね。大村湾を一望にできるほどの広い間口となっています。
窓枠部分を見ると、下部が強引に解体されたような痕跡が見受けられ、元の窓はもうちょっと幅狭であった可能性もあります。ガラス窓があったでしょうか。そこまでは分かりませんでした。
観測所は麓の射場と電話線で繋がれていて、指示は当初電話で行われていました。それが戦争末期の昭和20年ごろになると、いくつかある指示ボタンを押下するようシステムが改められました。といってもやがて終戦となったので、ボタンでの伝達方法は短命に終わったことになります。
この情報も、前編で登場した川棚町発行の戦時遺構紹介パンフレットによるものです。助かります。
片島の魚雷発射試験場跡の遺構は、目立つものは以上です。他にも、魚雷を一時保管したトンネル、貯水槽のほか、公園入り口付近には宿舎などの施設の基礎部分が、茂みの中にひっそりと残っていました。
周囲は他にも川棚海軍疎開工廠跡、特攻艇震洋の基地であった臨時魚雷艇訓練所跡といった戦跡があります。またすぐ近くの三越郷の漁港には、明治時代に活躍した駆逐艦「樺」を戦前(昭和8年という)に沈めた軍艦防波堤があります(この防波堤は「樺」の痕跡が分からないほど改修されたとか)。
片島は、戦跡という歴史の重さを感じさせながらも、大村湾の穏やかな空気に包まれていたのが、二か月経ったいまも強く印象に残っています。
取材・文・撮影=吉永陽一